子供の日なので、つい教育について語ってみました。

今日は「こどもの日」であります。
今年のゴールデンウィークは、日本の運気も楽しく賑やかになる星並びだったので、久々に明るいムードになるなぁと思っていましたけどね・・・まぁ、特に後半の、5月に入ってからの連休が天候に恵まれてね、家族で遊びに出かけた人も多いのではないですかね。
で、楽しいゴールデンウィークを終えるとね、何が起こるかというと、子供がね、崩れやすいわけですよ。
まだ新年度が始まったばかりで、緊張感のあった4月から、楽しい連休を挟むとね、どうしてもね・・・。

人を育てる、教育というものに必要なのは、その子の個性、人となりを見極めることだと思うのですよ。
できれば、その個性に合わせたオーダーメイドの教育をしたい。そんなことにも、ホロスコープは大まかながら役立つ部分があるのですがね・・・ただそういった相談を受けていて、話していると、そもそも“今どきの教育って、何を目指しているの?”ということを考えることになるわけですよ。

そこで、ちょっと今回は、僭越ながら、私が思うところの“今どきの教育”というものをお話しさせて頂きます。
今どきの教育には、大きくは2つの要素があると思っていましてね。

まず1つ目の要素なんですが・・・
そもそも動物を見れば分かりますが、何故、ライオンが子供に狩りの仕方を教えるかというと、やがて自分が亡くなった後に、子供が自立して食べていけるようにするためにですね。
人間もその通りで、何故、教育するかというと、まずは“大人になっても食べていけるようにするため”でしょう。これが教育の第一の目的だと思うのですよ。

で、もし学校というものが無かったら、親が“大人になっても食べていける”知識や技術を教えられる分野なんて、かなり限られてしまう。
“食べていける”レベル、つまりプロの世界はそんなに甘くはない。
となると、子供に“食べていける”知識や技術を伝えられるとしたら、自分がやっている仕事ぐらいしかないわけでありますね。
例えば、親が漁師だったら、魚を獲って、売るための知識と技術。鍛冶師なら、刀や金属製品を作るための知識と技術。八百屋ならば、野菜や商売の知識や技術・・・。
まぁ、江戸時代より前はそんなわけで、どうしても職業は世襲制になってしまいがちになったわけでありますが。

明治時代に入ると、学校教育が始まり、子供達は学校に行くようになる。
小学校などでは、広く使い勝手のいい労働者になるよう、読み書き、計算、基本的な知識が与えられ、子供達に将来いろいろな職業に就けるよう可能性を広げたわけですよ。
その方が政府や経営者にとって都合がいいわけでね。

国民はある程度能力が均一で、ある程度質の高い方にまとめられていったわけですよ。工場で働かせるにも、兵隊として戦わせるにも、協調性があって、規律正しくて、ちゃんとこちらの意図していることを理解できるような人たちに育って欲しいということです。

親の立場からすれば、教育によって子供たちに可能性が広がったわけですが・・・ここに欲が出てくる。
“大人になっても食べていける”というのは第一の目的だけれども、できれば、“食べていける”よりは生活に“余裕”があって欲しい。できれば、自分より子供たちに豊かになってもらいたい。

司馬遼太郎の「坂の上の雲」ではないけれど、貧困家庭でも、子供達は勉強に励んで、立身出世していけば、貧乏から抜け出すことが出来るし、裕福にもなれる。
そんな期待を教育に抱くようになっていくと。

それは家庭だけでなく、経済界も含め、国全体がそういう期待をしていったのではないですかね。
で、戦後、高校や大学への進学率が高くなってくると、競争が激しくなり、母親たちは教育に血まなこになっていくわけで・・・高度成長期には、“受験戦争”とか“教育ママ”といった言葉、社会現象が出てくるようになっていったわけです。
学歴が高ければ、優秀な労働者で、より稼いでくれる人間だろうと考える学歴社会ですね。

けれども、そういった学歴への欲望は、子供の方にも、親の方にも、多くの労力、資金を費やすことになり、その分の重圧、ストレスが掛かることになったわけです。

例えば、将来、東大に入るために、県外の全寮制の私立中学校にお子さんを進学させる人もいらっしゃいますが・・・子供の方も、親の方もそりゃ淋しいでしょう。
まぁ、お子さんの方が、将来ノーベル賞を獲る学者になりたいという熱い夢を抱いていたら、親としては応援するしかないでしょうけど・・・親の方からただ押し付けていたとしたら、どうでしょうね。

そこはバランスだと思うのですよ。
その子の将来を考えて、有利な道を作ってやりたいと思うのだけれど・・・そのプレッシャー、ストレスに子も親も耐えられるか、という問題。耐えられないものは、やっぱり耐えられないわけでね、破綻してしまうかもしれない。
本当は、その子にとってちょうどいいくらいに頑張るのがいいのでしょうね。

ただ学校というのは、ただ稼ぐための可能性を広げているだけかというと、そうではなく、国語とか、音楽とか、美術とか、数学とか、歴史とか・・・やはり親からでは与えられないような芸術的な、人間的な可能性も広げてもいます。この点に関しては、今回は省かせてもらいます。
私の親父は大工をしていましたが、もし学校の無い時代に生まれていたら、私は一生、漢文なんて読まなかったでしょうし、ビバルディの音楽を聴くことも無かったでしょうしね。

で、ここから2つの目の要素のお話であります。

高度成長期までは、均一でそこそこ質の高い労働者を育てることが国の発展に結びついてきたのだけれど、バブル経済がはじけて、ビル・ゲイツやスティーブン・ジョブスのような人が出てきて・・・日本の経済は、あっという間にひっくり返されてしまう。

バブルまでは、日本人は勤勉にコツコツと働く美徳感の下で働いてきたのだけれど、“これからは違うな”という感じになってきたわけですよ。

そこで、個性の尊重とか言われるようになり、世の中をブレイクスルーするような頭脳が求められるようになったと。
ただ個性と言っても、あくまで“有益な個性”であります。個性がただ引き立つのではなく、できれば孫正義のような起業家でもあって欲しい。
SMAPの「世界で一つだけの花」が流行しましたが、社会や国が教育に期待したのは、あくまで経済の発展につながる、社会を盛り上げるような個性であります。

で、これまで“出る杭は打たれる”のような教育は止めて、“出る杭を育てる”ような方向転換していこうとするのですが・・・
何せ、文部省の官僚たちも、教育現場の先生方もそういった人間ではないし、そういった人間の友人も少ないでしょうし、どうやっていいのか分からない。育て方の見当がつかない。
で、“ゆとり教育”というものが21世紀に入ると行われるようになるのですが・・・どうにも期待したような人材ができるのかどうか、結果を見ぬまま、疑心暗鬼のまま終わってしまったと。

混乱してしまっても当然ですよね。教育の場合、結果はすぐには出ない。
成功しているのか、失敗しているのか、分からない。
だから、どう修正、改善していったらよいのかも分からない。
この混乱の負担は、現場の先生方に重くのしかかっていたと。
親の立場からしても、捉えようがなかったことでしょうね。

ただですね、この起業家精神みたいな個性の尊重は、教育の中に今でも残っているのですよ。
もしかしたら、今はコミュニケーションが苦手で、クラスでは陰キャラだけど、将来はITの会社を起こしたり、スケボーに熱中してオリンピックでメダル獲ったり、お笑い芸人になってM1を制覇したり、YouTuberになって大ヒットしたりするかもしれない、という期待が、ふわっとなされるようになったわけですね。

高度成長期の日本だったら、“そんな夢みたいなことを言わずに、真面目に勉強しなさい。”と言われていたことでしょう。・・・今、そんなことを言わなくなったのは、先生や親の方が時代の変化に付いていけなくなっているようにも見えますね。

で、まぁ、1の部分の”より豊かになるため”の“学歴社会”の部分に、まだまだ未完成な2の“個性を尊重”が乗っかっているのが、今どきの教育の姿だと思うのですよ。

1の部分でも、あまりに力を入れ過ぎると、親子ともストレスが過重になってしまうので、バランス感覚が大事ですけどね、2の部分に関しても、やはりバランス感覚が必要になってくるのでしょう。
ただ、2の部分に関しては、教育者でなくても、親でもよく分からないというのが本当のところでしょうかね。

教育の第一の目的は、“大人になっても食べていける”ことだと思うですが、ソロキャンプのYouTuberなんかで結構稼いでいる人を見ると、その方向性は間違っていると言い切れないですものね。

まぁ、どちらにせよ、教育が1と2の要素で複雑化していて、以前よりもより子供の特性、個性を見極める必要があると思うのですよ。

あと、親や学校との相性という要素もありますしね。

別にホロスコープでなくてもいいのですが、その子の個性、人となりを理解して、できるだけその子に合わせたオーダーメイドの教育を施していくというのがいいのでしょうね。

(今回のブログは、敬称を省略させてもらいました。)