マツさんが亡くなって、1年。

火曜日の夜に放送されている「オモウマい店」という番組があって、私も好きで毎回見ているのですけどね。
出てくる店主はたいがい“儲けよう”と考えが無くて、お店をやっている理由が、おそらく人が好きで、人と会っているのが楽しいからやっているように感じられるのですよね。
私がよく行っていたマツさんのお店もそんな感じで、私は10年以上通っていたけれど・・・土産はもらってくれましたが、コーヒー代は受け取らなかったのですよ。変わったお店でしたね。
コーヒー代を受け取ってくれないから、次に行った時には手土産を持って行く。すると、常連客の農家さんがくれた野菜なんかを分けてくれたりして、結局、トータルするともらう方が大きかったような。
そのマツさんが、昨年1月14日に亡くなって、ちょうど1年。
話によれば、その14日の昼までは普通にお店に立って、いつもどおり賑やかにやっていたそうで。
翌朝、まだ日が昇っておらず暗い中ですが、常連客がいつも通りに行っても、まったくお店が開かないので・・・心配して、警察を呼んで、亡くなっていたのが分かった。死因は心筋梗塞。家の中で倒れていたそうです。
“ぽっくり”というやつですよ。今風に言うなら、“ピンピンコロリ”。介護も入院もなく・・・本人にとっては、理想的な最後だったのかもしれない。79歳。
マツさんお店張り紙
マツさんのことは、前に「夏が終わって、マツさんのお店へ」などでも、紹介しておりますが、実は正確な生年月日が分かっていないのですよ。1941年4月2日と戸籍上なっているそうなんですが、学年の一番最後の生まれになるのが嫌で、親が4月2日にしたということですよ。戦前のことですから、生年月日に関してはそのくらいのいいかげんさはよくある話で。で、本当の生年月日が分かっていない。
だから、私はちゃんとは星占いをしてあげられなかったですよ。
店のお客さんたちは、ほとんどが近所の、マツさんは子供時代からの知り合いや友人だったり。そんな近所のたまり場で・・・みんなが何気なく寄ってくる“駄菓子屋”のような感じですかね。
ただ集まってくるのは、子供ではなく、高齢者。
マツさんのお店は昔の写真を見ての通り、ツタに覆われて、喫茶店とは普通は気づかない。小高い道路沿いのお店で、周辺には麦畑が広がっている。
マツさんお店外観
グルメサイトでお店の名前“抹津”で検索しても、地図も住所も、なぜか1km以上離れたところを示していて・・・この世に存在しないかのようなお店だったんですよね。
そりゃ、知り合いの常連客しか来ないですわね。
私は仕事の関係で、その辺りを歩いていて、偶然見つけました。
でなければ、普通に車を運転していたら、気づかずに通り過ぎていたでしょう。
どんなお店のなのだろうかと、入ってみたら、古いたたずまいで・・・お客はじいさん、ばあさんばかりだが、雰囲気は明るく、皆楽しそうにしている。
コーヒーを頂くと、とても濃く、苦かった。どろっとしている感じでした。
マツさんのコーヒー
昭和の、私が子供の頃の喫茶店で出ていたようなコーヒーの苦さ。
で、店を出ていく時には、“コーヒー代は要らない。”と店主は言う。
?????・・・・。
まぁ、そんな寓話か、童話のような出会い方をしたものだから、気になってしばらくして、また行って・・・としているうちに私も常連客になってしまったというわけなのですよ。
マツさんのお店がある弥富市の十四山地区には、すぐそばに海がある。
というか、昔は海に面していて、マツさんの店の前には、昔、小さな港だった痕跡がある。
潮風の香がよく届いていた。
60年以上の前の、伊勢湾台風ではひどく被害があった地域で・・・すぐ隣ぐらいのところにある鍋田干拓地という地域は特に壊滅的だった。当時はまだ食料増産を目指し、全国から多く若者が入植して、(この干拓の事業には農家の次男、三男への対策という意味もあった)共同生活をしながら米作りを実践して学んでいた。この地で米作りが始められ、最初の収穫というタイミングで伊勢湾台風に被災することになる。堤防が壊れ、干拓地の全域が水没し、住人318名のうち、133名が命を落とした。新婚の花嫁16名、妊婦38名も含まれていた。水が完全に引くまで半年以上かかったそうだ。
まだ18歳だったマツさんは、ボートに乗って、多くの水に浮いている死体を見ることになったという。
泥水の中を進んでいると、何度か竿に引っ掛かって、水から上げた時、腰を抜かしそうになったそうだ。
その後、復興の段階で、巨大な治水対策事業が行われた。この辺りは、海苔養殖をしながら農業を営む、半農半漁の人が多かったが、漁業ができなくなった。
その代わりに多額の補償金を得るのだが、何もしないで急に大きなお金が入るものだから・・・働かずに遊んでばかりになったり、お酒を飲んだくれたり、ギャンブルをやったり、女遊びに明け暮れたり、騙されりして・・・あぶく銭は消えてなくなり、漁業はできなくなり、だけど農業だけでは食っていけないから、工場で勤める人ばかりになった。地域の生活と雰囲気は一変した。
でも、中には別の場所で土地を購入して、上手に運用して、大きなお金を得た人もいた。そういう人はこの土地を離れていったという。
そんな時代の中で、この“抹津”というお店がオープンしたというわけですよ。
そこから52年。ほぼ、私の人生と同じくらいの年月。
まぁ、何ていうかですね、この地域ならではの、そんな記憶と経験を持つ70代以上の人たちが、マツさんの店には集まっていて。
で、子供の頃から互いにそんな経緯も知っている者同士が集まっていたのですよ。
マツさんのお店には、週刊文春やポストなんかの雑誌も置かれていて、読んだりしていたのですが・・・このお店はそういった世俗からは切り離されているような感じ。
世の中どころか、時間の流れもゆっくりとしていて、今だに昭和40年代より前の時間のまま、進まなくなっているかのようでしたね。
私は3年半ほど、一宮市というところに居たことがあって、マツさんのお店まで片道25kmくらいだったけど、それでも、月に1回くらいはまめに車で通っていましたね。
マツさんのお店には、なんだか、せちがない世とは別の空気と時の流れがあって、それが魅力的だったですよ。
“俺が死んでも、誰もお前には伝えないかもしれないから、まめに店に来ないとあかんぞ。”
と冗談半分に言っていたが、ありがたいことにこのブログを読んでいる人の中に、マツさんの親戚の人がいて、私にメッセージで教えてくれました。
すぐに車で駆け付けると、上のような張り紙がシャッターに貼ってあった。
コロナの関係で、マツさんの葬式は家族葬になった。だから、お通夜にしか出られないのだが、そのお通夜に参列したら、大勢の人が集まっていた。100人はいたと思う。
知っている顔も多く、
“オアシスが無くなっちまったよ。”
と残念がっていた。
私にとっても、抹津というお店は、学生時代の部室やサークルの部屋に行くような開放感があったのですよ。
駄菓子屋のような、オアシスのような、部室のような、秘密基地のような・・・。
マツさんは、奥さんが亡くなってから、およそ20年、一人でお店をやってきて・・・本当なら、淋しい生活だったかもしれないけど、毎日、朝6時から午後1時まではお店でわいわいしていたから、楽しくいられたのかもしれないですね。
私以外にも、若い人がふらりと入ると、やはりお金を取らず、お菓子や野菜なんかの手土産を渡していたそうで。

私が最後に訪れたのは、2020年11月の終わり頃で、福岡の講座を終えてからだったので、生の明太子やら、カステラやら、福岡のお菓子なんかを持っていたですよ。
一度も冷凍していない明太子というのは、触感が良くてね。そんなことを話したら、マツさんは、他の土産はみんなに配ったんだけど、生の明太子だけはこっそり母屋に持って行った。おそらく奥さんの仏壇に供えに行ったんじゃないかな。
それ以降は、コロナも広がって行ってないのが、悔やまれる。年の始めにマツさんのお店に行くのを“マツ詣で”と呼んでいたんですけどね。

緑に覆われていて、
温かい陽射しがあって、
古くからの友人が集っていて、
競馬中継用の大きなテレビがあって、
コーヒーがあって・・・

このお店には、人生に大切なものが詰まっていたような気がするのですよ。