夏が終わって、マツさんのお店へ
最近は、私はあっちこっちにフラフラしているので、めっきり顔を出せなくなったが、2ヶ月に1回くらいはマツさんのお店に行く。前に「凶角のない人」で紹介したお店だ。
マツさんのお店は、愛知県弥富市の亀ケ地(かめがんじ)というところにある。か
め が ん じ。何ともいかめしい響きの地名だ。
ほぼ海に面した地域で、いつも海風がふーっと肌を擦るように吹いてきて、潮の香りがほんのりとする。名古屋駅からは15kmぐらいのところ。
だけど、車で通りかけても、これがお店だと気づく人はほとんどいない。珈琲屋さんの小さな看板はあるのだが、見落としてしまうんじゃないかな。
お店前面が、青々とした緑の葉で覆われている。覆われているどころか、盛り盛りしている。
お店はつたで覆われていたが、昨年突然、つたは枯れてしまった。
もう、うっそうとした緑の葉に覆われなくなってしまうのかと店に来るお客さんたちは残念がっていた。
が、面白いことに、その枯れたつたの残した硬い幹に、朝顔がつるを伸ばしていった。だから、お店の見かけは昨年までとほとんど変わらない。
よく見ると、お店の壁面に枯れたつたが今なお頑丈にしがみついている。
その姿はまるで、天空のラピュタ のようだ。
そのつたの幹の上を覆っているのが、朝顔の葉だ。
私が行った時には、電信棒の近くでしか、朝顔の花が見られなかった。
タイミングが合えば、お店全体が朝顔の花で包まれている姿が見られたのかもしれない。
ずいぶんとメルヘンチックなイメージで・・・この想像はちょっと気恥ずかしいかな。
せっかくなので、もう少し、マツさんのお店のことを紹介すると、お店の横には、樹々が茂ってできたトンネルがあって、そこを通り抜けると、お店の裏に出る。
この中庭にマツさんはミカンやレモンなどの柑橘系の木々を何本も植えていて、冬になると、それらの木々が多くの黄色い実を付けていたりする。ふわっと、柔らかい風とともに甘酸っぱい匂いが漂ってきてね。
この小道を通り抜けた先には、麦畑があって、春は一面黄金色になっている。
隙間だらけの、建つけの歪んだ古い木製のドアを押して入ると、中は老男女でいっぱい。老若男女ではなく、老男女。若はありません。ゲートボールのようなスポーツの集まりの後だったり、農作業の休憩に来ていたりして。おばちゃんたちの声が賑やかで、がはは、きゃははという笑いが店に響いていたりする。
お店は、マツさんのワンオペ。疲れるというので、お昼までしかやっていない。朝は午前6時から開いているから仕方ない。そんなに早く店を開けても、客なんて来ないだろうと思うのが普通なんだが・・・
でも、それよりも早く来て、店の前にすでにお客が立って待っていたりする。冬ならば、完全に日の出前の真っ暗な中だ。そんなじいさん、ばあさんを見かけたら、ぎゃーっと声を上げそうなもんだ。
そんなもんだから、マツさんも早朝から気が抜けない。
「年寄りは目が覚めるのが早くて、そんで、やることないから、来ちゃうんだよ。」
多くは70代以上。もう逝ってしまって、来なくなった常連さんもいっぱいいるそうだ。
そんな中に私は入っていって・・・気が付けば、私ももう10年以上、このお店に通っている。
マツさんは、お客の車がやってくると、窓から覗いて、誰が来たかを察知している。
「よっ、あんまり来んで、心配しとったがや。」とか
「お前さん、誰だったかなぁ。あんまり来んで、忘れてまったがや。」とか、
軽い皮肉交じりの言葉を掛けられて、私はカウンターにとっとと座る。
マツさんのお店は馴染みの客ばかりで、カウンターに座るような常連客とは、私はもう顔なじみである。週刊現代とか、ポストとか、女性○○とかいった雑誌から、スポーツ紙まで置いてある。ラインナップは充実していて・・・女性の裸の写真が載っているのが多いかな。そんな雑誌を眺めるのを休めて、隣のおじさんたちが
「お前、元気にしとったか。」
と声を掛けてくれたりする。
私は、ただ単にマツさんの息子さんと年齢が同じということで、コーヒー代がタダになっている。と言っても、いくらなんでも無料で頂くのは気が引けるので、お土産なんかを持っていったりする。
それも行く途中で、お漬物なんかを買っていくと、“わざわざ買ってくるんじゃない”と叱られるので、私がふらふらと鑑定や講座で回っている東京、大阪、福岡のお土産を持って行く。で、東京のお土産も、上野とか浅草とかの、ちょっと珍しいものを買っていったりするのだけど、さすがに、もう目新しいものが無くなってしまってね、最近は、お土産にに少し頭を悩ませたりもする。
で、今回は神楽坂のお菓子を持って行った。紙袋のままを手渡す。
「これ、神楽坂に住んでいる人がくれた 神楽坂のお菓子だから、たぶん美味しいと思うよ。」
「おお~、そうかぁ~。」
すると、マツさん、包装紙を解き始め、店にいる人たち全員に配り出す。
お客さんたちは、私に向かって、“ありがとうね”とお礼を言ってくれる。
そして、私の元にもあられの個包装がやってくる。
じいさんたちは、「なぁ、“かぐらざか”って、どこだぁ?」なんて、聞いてきたりする。
で、私が神楽坂というのは、東京の新宿にあるんですよ、なんて説明したりもするが、そういう私も、先月行ったのが初めてだった。
「しかも、これをくれた人は、銀座でホステスさんしている人なんですよ。」
なんて言うと、・・・まぁ、この話が本当か嘘かは置いておいて・・・農家のじいさんは色めき立って、驚いたりする。
マツさんは私のお土産に限らず、農家の人が野菜を持ってくれば、やはりその場にいる人たちに配る。ただ兼業も含めて、農家の人が多いから、あまり野菜は欲しがらないようだが。
マツさんのお店の中を彩っている棚の上の鉢もののお花も、花農家の人が持ってきてくれたものだ。秋になると、大輪の菊の鉢植えがずらりと並び、クリスマス近くになると、ポインセチアがお店を赤く染める。
マツさんのお店は古くて、山小屋のようだ、と思われるかもしれない。
建物自体の築年数はゆうに100年は経っている。
そうなると、行きたくても、トイレがねぇ、和式で、古くて汚いのは苦手なのよねぇ~と言う人もいるだろう。
トイレはシャワートイレなのだ。これも、3,4年前に工務店をやっている常連さんが、材料費だけで直してくれたそうだ。トイレはシャワーでないと、わしゃ、やらんという人も多い。おそらくこのお店で自分も用を足すだろうから、自分のために直したところもあるだろう。
名古屋近郊の喫茶店文化には、モーニングサービスというのがある。
だいたい10:00か11:00までにコーヒーを注文すると、トーストやサラダ、ゆで卵、豪勢なところでは、ホットドック、おにぎり、みそ汁、茶わん蒸し、プリンなんかが付いてきたりする。
だから、名古屋の喫茶店の場合、午後のティータイムよりも、午前中の方が混んでいたりする。
でも、マツさんのお店のモーニングは、ゆで卵だけだ。そもそも午前中しかやっていないから、モーニングとは言わないかもしれない。それも仕方ない。マツさんが一人でやっているお店で、そこそこ混んでいるので、いちいちパンなんて焼いていられないというのが本当のところだろう。
お客さんたちの方も、そこんところの都合をよく分かっているので、“マツさんの店はモーニングが淋しい”なんて誰も言わない。
私が通うようになる前の話だが・・・15年に奥さんを亡くして、それからずっとマツさんは一人でこのお店を切り盛りしている。もともと奥さんが始めたお店で、それを引き継いだ形だ。奥さんは近所でも人気のある人だったそうで、それでお店にファンがいっぱいできていたんだが・・・それをマツさんが一人でなんとか引き継いで、細々と続けて、15年というわけだ。
少し前に、年金では老後の生活に2000万円足りなくなるという金融庁の発表が話題となったが・・・まぁ、今でも話題になっているかな。そんな話が前に来た時、このお店でも話題となった。ここのお客さんたちは、自営業者で、国民年金しかもらえない人が多い。だから、“月に年金20万円以上もらって、まだ5万円足りないって、俺らにとっちゃ、雲の上の話だ。”なんて言っていた。
マツさんが言うには、家と畑さえあれば、まぁ、月5万円もあれば暮らしていけるそうだ。
「きゅうりが無いって言えば、誰かが きゅうりを持ってきてくれる。米が無いって言えば、誰かが米を持ってきてくれる。そんなにお金は要らんだろう。」
ささげ豆という野菜のおすそ分けをもらった。細長いいんげん豆のようなものだ。
この地方では、よくおひたしにする。農家の人が、今朝獲れたというので、マツさんのお店に持ってきたものだ。それを分けてくれたのだ。他の人ももらっていたようだが、農家の人ばかりで、自分のところでも作っているので、“お前、持って行くか?”とその人の分の袋をくれたりする。いつものことだ。ささげはそんなに持って帰っても、食べられないので、さすがにお断りしたが。
年に数回、若い人が、ふらりとお店に入ってくることがあるという。
よくお店と分かったね、なんて声を掛けるそうだ。
マツさんのお店の名前は、“抹津”という。
食べログ でも、ぐるなび でも、ホットペッパーグルメ でも、口コミ情報はまったく書かれていない。
写真も一切載っていない。
地図も載っていたりするが、実際のお店より1kmぐらい離れた場所を示している。
お店がこの世には存在していないかのようだ。
このお店を探すことは、なかなか難しい。偶然でないと、たどり着けないかもしれない。
じゃ、マツさんのお店は、へんぴな場所にあるかというと、そうでもないだろう。
店の前の道は旧東海道、旧国道1号線。昔は多くの人が行き交った道だ。幕末の頃には、多くの旅人や文人たち、倒幕の志士たちが、このマツさんのお店で一服・・・そんな訳ない。
12時近くのお昼時になると、長居していたお客も、家に昼食を食べに帰る。
それがマツさんのお店の閉店時だ。
私はささげをもらって帰る。マツさんに見送ってもらって。
私はコーヒー代がタダなのだが、その条件が1つだけある。
“また来ること”。
今度は、講座で行く札幌のお土産を持ってくることになるだろう。
次に来る時は、マツさんのお店はもう秋色になってるな。