【小説】俺と花香と黒いカバン

今回は気分を変えて、小説を書いてみました。

星占いに関わることしか書いちゃダメみたいな感じが息苦しくなってきて、自由にものを書きたくなってきたのよね。

もともとそういう人間だし。

星占いを期待されている人は、また次回お願いします。

 

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『 俺と花香と黒いカバン 』

 

午後5時。予定どおり。

夏の蒸し暑さが残る夕方に、ドアホンが鳴った。

俺の住んでいるマンションは、築30年以上の建物で、1階にオートロックがあるような洒落たものではない。ここは3階で、尋ねてくる客は3階の部屋の外の通路まで来なくてはならない。元嫁が、娘の花香(はなか)を連れてきたのだろう。今、花香は5歳だ。

覗き窓の丸いレンズを覗いてみると、誰もいない。

あれ? だけど、下の方にだけ人影の気配がある。

玄関のドアを開けた。湿った夏の風が、蝉の声とともに部屋の中にすーっと入ってきた。ドアの向こうには、麦わら帽を被った、黄色いワンピース姿の花香だ。にこにこした顔で俺を見上げ、一人立っていた。足には履き古したピンクのサンダルだ。

花香自身が入りそうなくらい、大きな黒いカバンが横にあった。エレベーターを使うにしても、ひきずるようにして持ってきたのだろう。もう何度もプールに行ったのか、花香は黒く日焼けしていた。

「一人で来たのか? ママはどうした?」

「下で別れてきた。」

俺は少し驚いた。花香が一人で来るなんて初めてだ。

俺は正直、元嫁のことなんてどっちでもよく・・・会いたいという感情は全くなく、むしろ、会えば、腹が立つ。花香だけが来てくれて、その方がよかった。元嫁も花香もそれを知っているのだろう。だから、花香だけなのを見て、俺は少しほっとした。

「大きな荷物だな。まるで家出じゃないか。中身は何だ?」

俺は黒くて無粋なカバンを持ち上げて、部屋の中に入れた。

「ひみつ。大丈夫だよ。このくらいは持っていられるよ。」

 

7月の終わり頃、娘を預かってほしいと元嫁からメールが入った。離婚した妻のことだ。

元嫁は何か仕事をしているらしいのだが、幼稚園の時間外だったり、さらに民間の託児所が休みだったりすると、俺のところに頼みにやってくる。向こうは、娘と会えて嬉しいだろうという親切心を見せているつもりかもしれないが、単に都合良く、俺を利用しているだけなのは分かっている。

 

娘の花香が3歳の時、元嫁と娘は突然居なくなった。いつものように仕事から帰ってくると、家の中はいつものようではなく、電気も消えて、音も無く、2人の荷物がすっかり無くなっていた。花香が大きくなっても暮らせるように借りた、越谷市内の3LDKのマンションは、がらんとね。

手紙がテーブルの上にあって、花香は私がちゃんと育てますとだけ。

最初の半年くらいは音沙汰無かったが、何となく、連絡があって・・・最初は腹を立てていたが、娘に会えるのがどうしても嬉しくて、月に何度か花香を預かるようになった。

今でも2人がどこに住んでいるのか分からない。

今回は2、3日預かってほしいと元嫁は言ってきた。泊まりで預かるのは初めてだ。

花香が眼を丸くして部屋を見渡した。

「このおうちは明るいよね。」

俺の住んでいる3LDKのうち、リビングと2部屋は南向きだ。開き戸が3つもある。ベランダも広い。なかなか贅沢な作りで、冬でも暖かく、ほとんど暖房が要らない。南側は田んぼに面しているから、夏でも南風が吹いてきて涼しい。3階だから、ベランダの開き戸を開けたまま眠ることもできる。花香は昔、このお家が気に入っていた。

「今夜は何が食べたい?」

「うどんが食べたい。」

俺は少し笑ってしまった。いつもそうだ。花香はうどんが好きで、外食となると、いつもうどんを食べたいと言う。

黒いカバンを開けることもなく、そのまま外へ出た。曇り空なのに、肌に触れる空気が蒸し暑く、気温は高いままだ。車を走らせて国道に出た。その国道沿いに花香とよく食べに来るうどん屋がある。楕円形の黄色い看板が高く、くるくると回っている。黄色地に赤いかかしの絵が描かれている。その下には、そば、うどん、らーめんと目立つよう書かれている。どちらかと言えば価格とボリューム、スタミナめしで勝負する、庶民的なチェーン店だ。まだ時間が早いためか、お客はまだらだった。

テーブル席がいくつもあって、奥には座敷席もある。窓の外には、トラックが絶え間なく走る国道と緑の田んぼの風景が広がっていた。

花香は店に入ると、サンダルをぬいで座敷席に上がった。俺は幼児用の補助椅子を取ってきた。店には黄色とピンクのキャラクターの描かれた椅子があるが、花香はピンクのでないと嫌がるから、いつもピンクの方を持ってくる。

花香も大きくなった。幼児用の座椅子がもうお尻がいっぱいいっぱいになっている。

「別に椅子は、ピンクでも、黄色でも、どっちでもいいよ。」

言うことも大きくなってきた。もうすぐ要らなくなるのだろう。

日替わり定食の書かれたカラフルなメニューが卓の上に置いてあるが、見る必要はない。花香は、これがこのお店で一番美味しいんだよと、夏はいつもざるうどんを頼む。私は、かき揚げ丼とざるラーメンのセットを頼んだ。

「花香がうちで泊まるのは初めてだな。」

「初めてじゃないよ。私、あのマンションに一緒に住んでいたんだもん。」

店の中には、仕事を終えた男衆が入ってきた。とび職だろう。黒の長袖シャツに乗馬ズボン姿だ。タオルを首に巻いていた。

6人席の座卓に俺と花香は向かい合っている。ざるらーめんやざるうどんの器はプラスチック製で、薄緑色していて、よく会社の社員食堂で使われていそうなものだ。ざるらーめんを口にする。昔ながらの冷やしラーメンの汁に似ている。口に入れると、酢醤油の酸っぱさが鼻にまでやってくる。そこに冷たいチャーシューが添えられていて、つけ汁に入れてみるが、肉脂の味が広がる訳でもない。昔から変わらない味だ。俺が子供の頃は、兄と親父とお袋の家族4人でやってきて、兄と取り合うようにして、わいわいと食べていた。よくお袋がから揚げなんかの揚げ物を俺にくれていた。

そんなことを思い出し、自分のかき揚げの一切れを花香のざるの上に載せた。

花香はにこっと笑って、それを口の中に入れた。

「いつから夏休みになったんだ?」

「ええ~っと、今日は28日だから、1,2、3、4・・・。」

花香は指で数え出す。だけれども、頭の中で、カレンダーの日付と数えている数字がごちゃごちゃになってしまうようだ。えへ、と笑っては、また真剣に数え出すが、再び笑い出す。

「あれ、分かんない。9日目?。」

花香は1月の早生まれで、今、年長さんのクラスだ。来年、小学校に上がる。

同じ幼稚園のコウタくんが、ちょっかいをかけてくるようだ。お昼の時間も給食を食べていると、邪魔をしてくる。逆上がりの練習をしていると、いつも自分の使っている鉄棒をコウタくんが横取りしてくるという。思い出した花香は急にむすっとして、息が荒くなって、両手を前に伸ばし、強くグーを握った。

「大丈夫だよ。もう夏休みじゃないか。コウタくんは何もしてこないよ。」

花香は口をへの字にしたまま、目をこちらに向けた。両手はグーのままだ。

たまに幼稚園にお迎えに行っても、他の子は誰が誰だか、名前と顔が一致しない。教室の中で、娘の花香だけがきらりと一段明るく輝いていて、他の子は目に入らないのだ。親とはそういうものだろう。コウタくんって、どんな子だったかな。

「もういいから、食べちまいな。」

「うん。」

花香は、うどんのことを思い出すと、すぐにいつも顔に戻った。背中を反らすようにして器を口に付け、子供用のフォークでつけ汁の中のうどんを口にかき入れた。

「全部食べたよ。つぼパパはぁ?」

器を俺に見せた。中にはつけ汁も残っていなかった。いつもの花香のにっこりとした顔が戻っていた。俺も残っていたざるらーめんの酸っぱいつけ汁を飲み干した。

 

マンションに帰ってきて、ドアを開けると、花香は走って家の中に入っていった。壁に寄り掛かり、背伸びして、カチッと部屋の電気を点けた。ベランダ側の開き戸は、網戸にしていったから、部屋はそれほど暑くはない。田んぼからの涼しい風が吹き込んできた。爽やかな青い稲と、水の匂いがした。

部屋の隅に黒く大きなカバンが鎮座していた。まだそのままにしていたのを思い出した。花香がカバンのファスナーを開けると、ずいぶんと多い量の服が入っていた。

「これ、何日分あるんだ?」

「分かんない。ママがどうなるか分からないから、いっぱい持って行けって。」

「どうなるか分からない?」

花香は俺の顔をしばらくじっと眺めて、顔を伏せた。

「そうだな。これだけ有れば・・・パパが洗濯を毎日繰り返していけば、夏休みの間ずっといられるくらいだな。ははっ。」

花香が少し不安気な顔をしたから、思わず、気の紛れるようなことを口にしてしまった。

俺は、今、時間はある。結構長く預かっていられる。俺の仕事はカメラマンだ。カメラマンと言っても、世界の戦場を駆け巡ったり、ファッション誌を飾るような華やかな者ではなく、結婚式場とか、幼稚園の入学式とか、遠足とか、飲食店のメニューの撮影をするような地味めな者だ。春と秋はかなり忙しい。だが、2、8月はほぼ仕事が無い。今は7月の終わり。暑くなってくると、カメラマン仲間と暇だぁ~、暇だぁ~とぼやいて、次のシーズンのための営業をしていたり、安酒を飲んでいたりする。元嫁はその辺りの事情をよく知っていて、今回の花香を頼んできたのだろう。2,3日と言われ、俺も適当に引き受けたのだが。

「花香は、何日泊まるとか聞いていないか?」

訊ねられた娘は、困惑しているようだ。

「いつ迎えに行くかは、つぼパパにメールで連絡するって言ってた。」

「相変わらず、いいかげんなヤツだな。」

本当に迎えに来てくれるんだろうな、と一瞬に疑ったが、迎えに来ないなら、それはそれでいいのかもしれない。

元嫁は突然出て行って、その後、何の相談も無く、俺のハンコを押した離婚届を役所に出した。親権の話し合いなんて全く無かった。慰謝料とか養育費とかの話も全く無かった。数日後、市役所から離婚の事実を確認する手紙が届いた。その手紙を力なく眺め、不服の申し立ての気力もなく、握りしめて、ごみ箱に投げ捨てた。1年ほど経って、ずっと昔から付き合っていた男の元へ行ったということを知るのだが、それまでは母娘の2人で暮らしているものとばかり思っていた。

娘とともに姿を消した頃は、頭の中が真っ白で、ふらふらして、世界が揺れて、裁判とか、調停とか、そんな事務的なことなど考えられる余裕など無かったのだ。静かな部屋の中で一人沈黙していたが、風呂場では、全開のシャワーを浴びながら、大声で泣いていた。

 

「さぁ、もうお風呂入ろうか。」

花香は、大きな黒いカバンの中から、自分の下着やパジャマを探し出した。

いっしょにお風呂に入るのは、何年ぶりだろうか。

花香が2、3歳の頃はよく一緒にお風呂に入った。クリスマスプレゼントに渡したままごとセットやアヒル、ぜんまいで動くクジラなどを両手いっぱいに抱えて、裸んぼで入ってきた。俺があまり先に入るとのぼせ過ぎて、途中で、頼むから、もう遊びは終わりにしてと何度も頼んだことがあった。時には2人で一緒にのぼせてしまうこともあった。

「花香は一人で服脱げるよな? 万歳するか?」

以前、一緒に入る時は、一人で服を脱ぐことができずにいつも手伝っていた。両手を上げさせ、シャツを引っ張って、時々、シャツの首の穴が花香の鼻に引っ掛かって、上向きに潰れた顔になっていた。その顔がおかしくも、かわいかった。

「大丈夫だよ。もう今は、一人で脱げるから。」

「そうか。じゃ、手伝わない。」

そう言いながらも、ワンピースは腕と頭を上手く抜くことができず、服の内側で固まってしまった。仕方なく、ワンピースの首のところでぐっと押さえて、頭を抜いてやった。花香はよろめいて、こちらに倒れてきた。肌はぺたりと吸い付くように汗ばんでいた。

花香は自分で身体、特に背中を洗うことができず、ボディソープとタオルで身体を磨いてやった。日焼けに水着の跡が残っていた。髪を洗う時は、ずいぶんと汗の匂いがした。少し鼻につんとくる。髪も前より太くなったようだ。濡れた時の指の絡み方が違う。ごわごわするようになった。花香は小さな両手で、自分の泡まみれの髪をごしごしと洗った。一緒に手伝って髪を洗った。身体の大きさも以前の花香とは違い、ずいぶんと成長していた。以前のように、花香のためのおもちゃは置いていない。今の家では、キティちゃんのシャンプーやら、ボディソープを使っているそうだ。花香にとっては、楽しくないお風呂となったかもしれない。

長方形のバスタブを2人で並んで入っていた。

「つぼパパはいつも一人で入ってるの?」

「ああ、そうだよ。他に一緒に入ってくれる人がいないもん。」

「さみしいね。」

「寝る時だって、ご飯食べる時だって、一人だよ。もう慣れたよ。」

 

娘は、俺のことをつぼパパと呼ぶ。俺の苗字は、坪井。だからつぼパパ

元嫁は、花香が3歳の時に家を出て行って、俺と結婚する前に付き合っていた男と暮らしている。結婚している間も、ずっと不倫されていた。でも、俺は鈍感だから気付かなかった。

そして、その男がパパなのだ。

元嫁は娘に区別させるために、俺のことをつぼパパと呼ばせている。

なぜそんなことに気付いたかというと・・・

俺は元嫁の都合良く、時々、娘の面倒をみているのだが、昨年、初めて幼稚園に花香を迎えに行った時、園のスタッフが書類を取り出して、俺の顔をじっと睨んだ。

彼女の前の、カウンターに置かれたその書類が俺の目に入った。

書類は花香のもので、お迎えに来る人の名前と、顔写真が貼ってあった。安全上の問題だろう。1番目は元嫁で、2番目はその男だった。3番目に追加されたように俺の名前と写真があった。

俺とは別にもう一人、男の顔写真があって、俺より順位が先になっていた、ということだ。そのことを元嫁に問うて、元嫁と、その男と、花香が一緒に暮らしていることが分かった。

 

風呂を上がり、花香の髪と身体をバスタオルで拭いてやった。

花香をパジャマに着替えさせる。その時、花香が持ってきた大きな黒いカバンを覗くと、白地にきれいなピンク色の椿の花柄の浴衣が入っていた。大判の椿の花だ。

「浴衣?」

「うん。浴衣。買ってもらったの。」

花香が声を弾ませた。

ワンタッチで着せられる簡易な子供用の浴衣だ。花香は嬉しそうに微笑んだ。

「どうして浴衣?」

「明日の夜、こしがやで花火さんのお祭りがあるよね。それに着ていくの。」

「越谷の花火大会か?」

「うん、それ。浴衣を着るのは、初めてなんだ。」

「そうかぁ、それじゃ、これを着て花火に行かなきゃな。」

花香はにっこりとして大きく頷いた。浴衣の折りしわが少しでも伸びるように、ハンガーで壁に掛けておいた。ピンクの椿柄の浴衣で、独り暮らしの無機質な白いマンションの部屋が、華やいだ。

 

2年近く前に花香と元嫁が出て行って、正直、いつか2人が戻ってきてくれるとどこかで期待し続けている。実家は隣の春日部市にある。そう遠くはない。実家でなくても、本当はどこかに引っ越しをしてもいいのだが、こうして時々花香に会えるから、延ばし延ばしで、つい2年もこのマンションに居続けた。この5階建てマンション。一階は駐車場だから、実質4階には、24世帯が入居できる。

おそらく一人で暮らしているのは俺だけだろう。

窓の外の点々と灯る明かりには、そこに生活する人たちがいて、家族がいて・・・今、俺は花香とこのマンションにいる。

そうこうしているうちに、花香は眠くなってきたようだ。目を瞑っている。

花香の両脇を持ち上げて、布団に寝かせた。すやすやとした寝顔だ。あの大きな黒いカバンを持ってきて、疲れたのだろう。

同じ布団に寝た。隣には花香がいる。外の点々とした光が見える。ウォーウォーというウシカエルの鳴き声がずっと響いている。電気を消して、俺も布団に寝た。うす暗い天井を見上げた。

ふーっと、ため息がこぼれた。

2人で布団に横になっていると、何だか、花香を取り返せたような気分になった。

 

花香が一緒に暮らしているパパという男は、俺には決して近づこうとしない。姿を見せない。花香と元嫁が出て行った時もそうだ。こそこそと連絡し合って、水面下で引っ越し計画を進め、いきなり2人の姿を消させたのだ。

その男は、もともと結婚前に元嫁と付き合っていた男で、そんな男がいるとは知らずに元嫁と付き合って・・・赤ちゃんができてしまった。元嫁は二股を掛けていたということだ。ただその男も、元嫁が俺と付き合っていることを黙認していたという。

その男と元嫁の間でも昔、妊娠があったらしい。ただその男は経済的に子供を育てる自信が無いことから、中絶させたそうだ。仕事はプロの家庭教師をしているという。俺と結婚する前は、元嫁はその男と暮らしていた。元嫁の亡くなった父親が残したマンションに住んでいたのだが、そのマンションにはローンが残っていて、月々の支払いが払えず、差し押さえになって、競売に掛けられる寸前だった。そんな時に、俺と出会ってしまった。

黙認していた男でも、元嫁が俺の子を妊娠したのを知って、さすがに腹を立てたそうだ。で、元嫁のお腹を足で蹴ったらしい。つまり花香の宿ったお腹だ。元嫁はそのことを俺に報告した。

俺はその数日後、そのマンションに行った。男が仕事から帰ってくるのを待った。

男はドアを開けて入ってきて、奥の部屋に行く途中で、顔を伏せるようにして、こんばんはとしらっと挨拶をしてきた。俺の横を通り過ぎる瞬間に、男の腕をぐいっとつかむ。男はよろけて、怯えた目をして、そこまでして、やっと顔を見せてきた。

俺は興奮したままで、男を大声で怒鳴りつけた。

「お腹を蹴ったそうじゃねぇか。まだ生まれていない俺の子が死んじまったら、どう責任取るんだっ。」

男は顔を手で隠し、奥へ逃げようとする。服の背中を握ると、今度は、かがむように座り込み、頭を床に擦り付けるように土下座をしてきた。

向こうもぶつかってきて、男同士のケンカになるかもしれないと思っていたが・・・ただ顔を床につけて伏せたままだった。何度も同じことを言っているうちに、言葉を無くしてしまった。俺は拍子抜けしてした。反抗されないと、のれんに腕押しのようになってしまう。

ただ誤解してもらいたくないのは、俺はそんなにケンカっ早くはない。その前に大声で怒鳴ったのは・・・20代半ばの、仕事で行ったソウルで、ぼったくりの焼肉店に入った時以来だ。

男が俺の前に姿を見せることは、二度となかった。

ただ、虎視眈々とチャンスが来るのをじっと待っていたのだろう。花香が3歳の時、大脱走計画を成功させた。

男は、花香をかなり小さい時から可愛がっていたようだ。本人いわく、中絶した子の生まれ変わりだと。もう一度会って、今度は殴り倒してやりたいところだが・・・もう止めた。

花香には申し訳ないことをした。こんな厄介な環境で生活させて、申し訳ない。

寝息を立てている娘の顔を見ていた。気持ちが安らぐ。

 

カーテンを閉めずに眠るから、夏の朝は早めに明るくなる。湿っぽいどんよりとした風が入ってきていた。外は曇っていた。今の時間は7時くらいかな。

別に用事も無いので、目が覚めても、動くことなく、布団に横になったままでいた。花香も眠ったままだ。と思っていたが、パッと目を開けた。こちらを向いて、

「つぼパパ、おはよう。」

くしゃくしゃの顔をしながら、笑った。

なんだ、起きたのか。もう少し、寝ていてもよかったのだが。

ピンクのチェック柄の半袖パジャマが起き上がった。髪の毛が所々立っていた。

 

パンと目玉焼きで軽い朝食を済ませた後は、しばらくテレビを一緒に観ていた。退屈したのか、花香はもの惜しそうに外を眺め始めた。外は灰色の雲が覆っていた。強い日差しはなく、出歩いても楽そうだ。

「あの、いつもの公園にでも、行くか?」

「うん。」

「何しようか?」

「砂場に行きたい。」

夜の花火大会までには十分過ぎるほどの時間があった。いつもの公園。花香が家に居た頃は、よく一緒に行っていた公園だ。歩いて7,8分ほどのところだ。

俺と花香はサンダルを履いて、公園へ歩いて行った。花香はかわいい麦わら帽子にクジラさんのTシャツ、水色のパンツ。手には、押入れに残してあった砂場セット。カラフルなプラスチック製のバケツとスコップ。近くの100円ショップで買ったものだ。その公園は、小さなグランドも併設しているような大きなところで、緑が多い。楠やいちょうの木も茂っている。蝉がぎんぎんと耳に突くような鳴き方をしていた。雲に隠れて陽は出ていないが、湿度は高く、じめじめと暑かった。真夏の公園にはほとんど人がいなかった。数人の子供たちが自転車に乗ってきて、ブランコで遊んでいる程度だ。

 

花香と砂場で遊んだ。バケツとスコップを使って、一緒に山を作って、水を流したり。昔、3歳ぐらいの花香は砂場遊びが好きだった。スコップで砂を掘り進み、そこを通りますようと言いながら、一緒に砂まみれになって、砂場の土木工事をしていた。でも、今の花香は砂場遊びよりも鉄棒の方に関心が高いようだ。砂の山、川を作り終えると、自分から手を洗いに行き、そのまま鉄棒に向かった。3段の高さがある中で、一番低い鉄棒だ。茶色い鉄の棒を握ると生温かった。

花香は両手で鉄棒をつかみ、前へ大きく蹴りだす。身体が前に投げ出されて、振り子のようにぶらりと鉄棒の下に戻ってきた。

俺は、幼稚園児なら逆上がりができなくても当然と考えるのだが、花香は負けず嫌いで、同じクラスの誰かができていて、その子を見て羨ましくなったのだろう。コータくんだろうか。

俺は花香の隣に立って、腕で支える用意をした。

「ほら、もう一度やってみろ。」

「うん。」

花香が脚を蹴り上げた瞬間に、俺は娘のお尻を持ち上げ、腹部を鉄棒に引っ掛けた。

「いいか、ただ飛び上がるんじゃなくて、両足とお腹を鉄棒に乗せるようにするんだ。」

花香の顔は逆さまのまま、頷いた。髪が逆立っている。頬を赤くし、何度も膨らまして、息が苦しそうだ。

「そのあとは、自分の身体を持ち上がるように、足を振って。」

鉄棒にお腹を押さえられた体勢のまま、花香は宙で足をじたばたさせる。でも、上体はなかなか持ちあがって来なかった。

「どうやってやるのぉ?」

苦しそうな声。俺も上手く伝えることができず、語気が強くなって、足で身体を回すようなジェスチャーをして、

「えい、えい、えい、えいっ、だよ。」

花香は両足を同時に勢いよく振り出した。

「えい、えい、えい、えい、えい、えい、えい・・・。」

「もっと力を入れて。起き上がろうとするんだ。」

花香は大きな声を出し、両足を曲げたり、伸ばしたりして、

「えいっ、えいっ、えいっ、えいっ、えいっ、えいっ、えいっ・・・。」

まだ力が足りないようだ。俺は花香の脚の振りに合わせて、身体を持ち上げてやった。

花香は鉄棒に上体を乗せたまま、

「やったーーーーっ、できたよ。」

「できていないけど、そんな感じでやるんだよ。」

「なんか、できたよね。」

花香は鉄棒を降り、また、前に身体を蹴り出す。俺はまた両腕で娘の背中とお尻を持ち上げ、再び鉄棒の上にお腹を引っ掛けてやった。花香の背中は汗で濡れていた。少し動くだけも汗ばむ陽気だから、仕方ない。俺も花香も額に玉のような汗をかいていた。

「ここから、えい、えい、えいっ、だね。」

「そうだ。えい、えい、えい、えいっ、だよ。」

花香は脚を空に向け、えいっ、えいっ、えいっと吠えながら、大きく振る。でも、苦しそうな表情になると、俺が力で回してやった。

何度もやっているうちに、見事に、お腹を鉄棒に引っ掛けることはできるようになった。でも、上体を回して、身体を上げるところまではいかなかった。まだコツが上手くつかめていないのだろう。二人とも汗だくだった。

「もういい、今日はこのくらいにしよう。十分にできるようになっているよ。」

実際、鉄棒に両足とお腹を持ち上げられるようになったのだから、大きな前進だ。

花香は顔中の汗をタオルで拭って、にこっと俺の顔を見上げて、

「なんか、逆上がりって、おもしろいね。」

えっ? 花香が妙なことを言い出した。

「逆上がりしている時って、足が宙に浮いていて、雲の上を歩いているみたい。頭がくるくる回って、ふわふわとして、空に飛んでいるみたいだね。」

「気持ち良かったのか?」

「うん。気持ち良かった。」

花香の手は赤くなって、汗で湿っていた。その手を握って、娘の歩速に合わせ、マンションにゆっくりと帰って行った。マンションまでの道は、田んぼが広がっていて、歩きながら、田んぼの中を覗き込むと緑色のウキクサがびっしりと水面を覆っていた。

 

着信音で目が覚めた。俺のスマホにメールが届いたようだ。元嫁からだった。

帰ってシャワーを浴びて、昼食を食べた後、鉄棒の疲れで2人とも眠ってしまっていた。

明日の午後、花香を迎えに行く。

待ち合わせの場所は、レイクタウンのイオンモール。いつもの場所だろうから、アウトレットの建物だ。

「私のところにもメールが入っていたよ。ママ、明日迎えに来るんだ。」

花香の子供用の携帯にもメールが来ていたようだ。花香は、携帯の画面をじっと見ていた。

「どうした? 何かあったか。」

「決まっちゃったんだって。」

「何が?」

「引っ越しすることになるんだ。」

「引っ越し?」

今回預かったのは、旅行のためなのだそうだ。その旅行というのは、引っ越しのための準備で、

「パパのおばあちゃんちに行くんだって。」

「どこ?」

「わかやまけん。」

元嫁と一緒に暮らしている男の祖母、祖父の家のようだ。容体が悪くなって、パパという男が行くことになったらしい。そこで、元嫁と花香も連れて行くそうだ。祖母、祖父が2人を連れていくことを認めるかどうか、交渉のための旅行だったようだ。その家に入って、一緒に住むのだから・・・元嫁は再婚することになるのだろう。花香とは遠く離れてしまうのだろう。

頭の中から血が引いて、ボーっとしてきて、一瞬、視界が狭くなった。身体から力が抜けて、崩れて、畳の上に座り込んでしまった。

外を見ると、パラパラと雨が降っていて、道路は黒く濡れていた。

「あれっ。雨だ。これじゃ、越谷の花火は中止かな。」

「えっ、やだよ。花火さん、やんないの?」

花香は窓際へ走る。初めて浴衣を着られると思い、楽しみにしていたのに。淋しい知らせの後に、またがっかりとさせられる天気になってしまった。娘は、ぼんやりと力が抜けた顔で、外の雨の様子を眺めている。花香は沈んでいて、その姿を見たら、諦めさせることはできなかった。

「夜までには止むかもしれない。さ、浴衣を着よう。」

「・・・うん。浴衣、着る。」

花火はダメかもしれないが、浴衣を着ることはできる。

俺は笑顔を作った。花香にTの字になるよう、腕を横に上げさせた。外は暗く、雨は少しずつ強くなっていった。ピンク色の帯を巻く。白い壁が光を照り返すマンションの部屋の中で、娘はピンクの椿の浴衣をまとうと、ぱーっと見違えるように女の子らしくなった。

「おお、かわいいじゃないか。」

「ええっ、どんな感じ?」

肩を押して、姿見の前へ連れていった。全身を眺め、花香ははしゃぐような笑顔を見せた。

「浴衣、かわいいよね。」

「じゃ、雨だけど、行くか。」

「うん、行く。ねぇ、夕ごはんはどうする?」

「向こうで、屋台のものを食べればいいじゃないか。」

正直、まだショックが大きくて、くらくらして、とても食欲なんて無かった。

引っ越すという言葉が頭の中でぐるぐると巡って・・・思考が停止しそうになる。身体まで動かなくなる。・・・必死で考えないようにした。

花香は下駄が無かったので、履き古したピンクのサンダルのままだ。全身ピンクだらけだ。俺は浴衣なんて洒落たものを持っていないから、半袖シャツに半ズボンに黒いサンダルだ。

1本の傘をさして、2人でせんげん台駅まで歩いていった。乗るのは、わずかに3駅ほどだ。走る電車の窓は雨で濡れて、風景が歪んでいた。

越谷駅で降りると、大勢の人たちで混雑していた。浴衣姿の人ばかりだった。外を見ると、本格的の雨だった。地面には叩き付けてはね返るような雨で、道路に水が溜まっていた。花火を見に来たお客は皆、混雑する駅で立ち往生していた。本当なら、屋台を楽しんでいる時間だろうに。

「花火さん、やらないのかな。」

花香は不安そうにつぶやいた。

「まだ時間は有るからさ。まだ分からないよ。」

駅からは、商店街やロータリーが見える。外はばたばたと雨が地面や屋根を叩く音が鳴っていた。

電車が停まる度に、駅の構内は人が溢れてきた。少し雨が弱くなってきたところで、俺と花香は傘をさして屋台を目指して歩き始めた。サンダルの足は濡れて冷たかった。

通りには賑やかに、色とりどりの屋台が並んでいた。雨のおかげで人はまばらだった。

雨水が屋台のテントから滴る中、俺は大好物のいか焼きと麦茶のペットボトル、花香はチョコバナナを最初に買った。喉の渇きを麦茶で潤して、いか焼きをくわえながら、他の屋台を物色していった。家族連れやカップル、中学生たち。流行なのか、浴衣姿の人も多くいた。皆、傘をさしながら、屋台を楽しんでいる。

あちらこちらからこりゃ、花火大会は中止じゃないの?といった会話が聞こえてくる。

一つ傘の下で、浴衣を来た花香が俺の顔を見上げてくる。俺は、その度におどけた顔をしてごまかしていた。それでも、娘の澄んだ目でじっと見られると、見透かされているようで、

「仕方ない時は、仕方ないよ。笑って・・・お家に帰ろう。」

いい思い出にしたかったが、そうは上手くいかないのかな。

「雨なんだから、みんな、隅田川の花火大会に行ちゃえばいいのにね。」

この越谷花火大会は、毎年隅田川の花火大会と同じ日に行われる。隅田川の方は、花火の数もずっと多いのだが、立ち止まって花火を見ることができない。関東圏の人が集まってきて、びっしりとしている。俺は一度行ったことがあるが、やっぱり昔から見ているこの越谷花火の方が好きだ。こちらも結構混雑するのであるが、隅田川よりはマシなのだ。

「あれ、雨が止んだのかな?」

他のお客たちが傘を閉じ、手に持って歩いている。空はまだどんより灰色の雲が覆ったままだが、少し明るくなった。花火大会の15分前になって、雨が収まった。

「よかったね。花火さんはこれで行われるよね。」

花香の浴衣は少し雨に濡れて、だらりとしていた。俺のTシャツも髪も濡れていた。娘はぎりぎりのところで止んでくれた雨に感謝しているようだった。曇った空を仰いでいた。

開催が決まったのか、アナウンスが流れてきた。協賛の会社などの名前が呼ばれていた。

カウントダウンの練習のアナウンスがあり、

「5、4、3、2、1と言ったら、元気な声で・・・」と聞こえ、そのまま本番のカウントダウンに入っていくと、花香はにこにこして、大きな声を出して

「5、4、3、2、1・・・」と一緒に数を数え出した。

「点火〜〜〜っ!」

アナウンスの声が元気よく声を上げた。

・・・しかし一向に花火は上がらず、堤防からは煙だけが上がっているのが見えた。

「花火さん、ぜんぜん、上がらないねぇ。雨で火がつかないのかな。」

花香は不安そうに言う。周囲からも、上がらないなぁという声があちこちから聞こえてきた。

「本当だな。雨は止んでくれたのにな。」

「けむりがいっぱい出てくるだけで、花火さんが出てこないよ。」

花香の肩を両手で抱いた。小さな、湿った肩だった。娘の体温が、濡れた浴衣を通して手の平に伝わってきた。

「・・・大丈夫だって。」

その瞬間、空に吹き上げるように黄金色の火柱が立って、どどーんという大きな音を鳴った。その上には大輪の赤や白、黄色の花火がばばっと破裂した。

観客からおお~っという声が上がった。花火は早いテンポで、連発で上げられていった。空で、赤や、青、黄色の花火が大きな音をたてて、ぱーっと広がった。元荒川の水面にも、にじむように花火が写っていた。花火の光が花香の顔を照らした。何発も何発も打ち上げられた。

「花火さん、大きいねぇ。」

「そうだ。花火は大きいよ。」

「うん、音も大きい。きれいだね。」

30分もすると、また雨が降ってきた。花火は今さら止められないぞ、といった意気込みか、本降りになる前に終わらそうというのか、花火を上げるテンポ、勢いが増したようだ。観客たちは傘をさし始めた。雨が降る中、観客たちは空を閃光で覆う花火に見とれていた。

花火が雨空を彩っている最中に、花香は炭坑節を踊りだした。

「掘って、掘って、また掘って。かついで、かついで・・・」

花香は炭鉱節を幼稚園で習っている。幼稚園で炭坑節を教えるのに、そのポーズの意味を伝えているようだ。花香は炭坑節の月が出た、出たという歌詞よりも、この掘って、掘ってと歌っている方が楽しいのだろう。

「おして、おして、開いて。ちょちょんがちょん。」

そう言って、花香は両手を叩いた。そして、また頭から繰り返した。掘って、掘って、また掘って・・・。雨の中、大勢の人たちががやがやと集まっていて、賑やかな屋台が色とりどりに並んでいて、夜空にはババーンと大きな音を立てる花火が連発していて・・・ただ立っているだけでも大変な込み具合の中、5歳の花香は髪を濡らしたまま、お気に入りの浴衣を着て、炭坑節を踊っていた。夏の祭りというのはどんなものでも、花香にとっては、とりあえず炭坑節を踊る場所なのだろう。

初めての浴衣姿の花香が雨の中、楽しそうに踊っているのを見ていて・・・引っ越すという言葉を思い出してしまった。

ドドーン。ドドーン。

俺は傘を閉じた。雨が頭から当たり、髪、顔に垂れていった。口の中に流れ入ると塩っぱかった。涙を止めたくて、歯を食いしばった。

赤や黄色、青、緑の花火の光がまばゆく夜空に咲いて、散っていった。絶え間なく輝く花火の光も、屋台の電灯も、すべての風景が滲んでいた。

今年の花火大会は予定より早く、1時間半ほどでフィナーレを迎えた。花火が連発して打ち上げられ、最後に白い大輪の花火が大きくきらめいて、その後で、ドドドォーン、パラパラという音が遅れて響いてきた。

越谷の花火大会は終わった。俺にとっては短くて、長い時間だった。

 

東武線の越谷駅での大混雑でなかなか電車に乗られず、満員電車に潰され・・・せんげん台駅からは2人傘をさして、マンションに帰った。一緒にお風呂に入り、花香を寝かせた。布団の上に寝かせると、花香はすぐに深く眠り込んだ。

明日の出発までには乾くだろうから、花香の服を洗濯機に入れて回した。空いている部屋に、花香の服と、ついでに洗った俺の服を干した。ピンクの椿の浴衣、クジラさんの絵柄のTシャツ、俺のTシャツが並んでいた。

今夜は、花香と一緒に眠ることができる。それ以上は考えないようにした。

 

翌日、手をつないで一緒にマンションの階段を下りていき、大きな黒いカバンを持って、車に積んだ。みんみん蝉が何重奏にもなって鳴き続けていた。花香にチャイルドシートのシートベルトを掛ける。今日もまた曇り空だ。レイクタウンのイオンモールに向かう。花香は膝に麦わら帽子を置いていた。レイクタウンにはいくつもの棟があって、その1つ1つが大きい。未だに俺はこのすべてを廻ってはいない。でも、よく行くアウトレットの棟は知り尽くしている。

アウトレットの2階からはすぐ隣の遊水地が見える。大きな遊水地だ。埼玉スタジアムがすっぽりと入るくらいの大きさなのだ。小さな青い帆のヨットもゆったり浮かんでいた。

アウトレットの棟にはあまり壁や屋根が無く、遊水地からの涼しい風を肌で感じることができた。

花香はお昼に好きなハワイアンのハンバーガーを食べ、機嫌がいい。

柵の間から遊水地を見て、花香は

「きのうの夜は、ここからも、花火さんが見えたのかな。」

「ああ、そうだな。雨だったけど、たぶん、見えたんだろうな。」

昨日のことを花香は思い出し、楽しかったねと笑い、

「海は広いなぁ~、大きいなぁ~」と歌い出した。

「これは海じゃないよ。ため池というか、湖というか・・・そういったものだよ。」

「海じゃないのは分かっているよ。私、本物の海を見たことがないもん。」

花香は柵に両手を掛けて遊水地を覗いていた。俺は花香の肩を抱いた。

「和歌山に行けば、きっと本物の海を見られるよ。たぶん、行く途中で見られるんじゃないかな。新幹線でも、電車でも、車でもどれで行っても、海は見られるよ。」

遊水池から吹いてくる風は、少しひんやりとしていた。

「もう、つぼパパに、あんまり、会えなくなるね。」

「・・・そうだな。」

 

元嫁がテラスに現れた。Tシャツにデニムのパンツ姿だ。帰ってきて、引っ越しの準備でいろいろと忙しくしているのだろう。

花香は大きな黒いカバンを持ち上げて、うんしょ、うんしょと元嫁の方に歩いて行った。俺の方を振り返る。元嫁は、花香の頭を撫でた。

「花香を預かってくれて、ありがとう。突然だけど、私たち、お盆までに引っ越すから。」

聞きたくはないが・・・元嫁に詳しく話を聞くと、今、一緒に暮らしている男、パパの祖父祖母の家に行くそうだ。親戚中で、誰かが高齢の祖父祖母の面倒をみなければならなくなり、一番暇そうなパパに白羽の矢が立ったということだ。パパからすれば、家賃も光熱費も掛からないし、生活の援助もしてもらえるだろうと期待している。問題は、花香のことだが、祖父祖母からすれば、連れ子の女と再婚しても、孫として素直に喜べない。ところがパパという男は、実は、自分の子と言い張ったそうだ。元嫁と結婚前に付き合っていて、いろいろ複雑になって、よく分からず、父親として認めていなかったが、実は、自分の子だったというようにしたらしい。和歌山に行ったら、3人とも名字がそのパパのものになるそうだ。

「新学期になったら、花香はどこかの幼稚園に入るのか?」

「大丈夫よ。のんびりした所だから、幼稚園はどこでも余裕あって、たぶん入れるわよ。」

あと半年ほどで幼稚園を卒園するから、それまではここに居ればいいじゃないかと言おうと思ったのだが、そうもいかないようだ。

「じゃあな。花香。向こうの幼稚園に行ったら、友達をいっぱい作るんだぞ。」

寂しそうに笑顔を作り、花香はその小さな手を振った。

「つぼパパ。さようなら。バイバイ。」

「いつか会える日が来るさ。また一緒に公園で遊ぼう。」

「うん。」

夏休みの日曜日のレイクタウンには大勢のお客さんがいた。賑わう人込みの中を2人は去って行き、姿を消した。花香と大きな黒いカバンは見えなくなった。

 

日が経つにつれ、もう会えない、もう戻ってくることはないという現実が強く感じられるようになっていった。窓からは、ただ単調な蝉の鳴き声が入ってくる。

花香と元嫁とパパは、和歌山県に行ってしまったのだろう。

記録的に続く曇天の下、俺はただ蒸し暑い夏を過ごした。力が抜けて、毎日、ぼーっと横になっていた。どうしても外に出たい時はパチンコ屋に行った。せんげん台の駅の周辺にはパチンコ屋がいくつもある。パチンコのど派手な画面と音楽は頭の中の嫌なことを掻き消してくれる。でも、家に帰ると広い部屋に一人だ。忘れたいことが多過ぎて、忘れたい風景が目に浮かんできて、だるくて、横になると身体が動かなかった。

 

そんな日々を送っていて、9月になった。元嫁のLINEから珍しくメッセージが来た。画面を見ると、動画だ。

そこには、花香が鉄棒に向かっている動画だ。

「ママ、ちゃんと撮ってね。」

小さく、音声が聞こえてきた。蝉の鳴き声も入っていて、聞き取りにくい。

花香は小さな画面の中で、鉄棒に向かって、自分の身体を蹴り上げた。腕で鉄棒に身体を引き寄せ、お腹を鉄棒に引っ掛けた。

「えい、えい、えい、えい、えい・・・・。」

花香は鉄棒の上で、両足を力強く大きく振って、もがいていた。宙に浮いた左右の脚を交互に。精一杯、空を歩こうとしているのかもしれない。

「えい、えい、えいっ、えい、えい、えいっ、えいっ、えいっ、えいっ、えいっ・・・。」

花香が背を伸ばし、上体を回して鉄棒の上に持ち上げた。逆上がりが成功した。そして、胸を張って、真っ赤な顔をカメラに向けた。

あどけない笑顔を見せた。

30秒ほどの動画だった。他にメッセージは無かった。

この鉄棒のある場所は、新しい幼稚園だろうか。それとも和歌山にある公園だろうか。

俺は何度も、花香の逆上がりの動画を繰り返し見た。

 

俺は自分の部屋を見渡した。白い壁。畳。外へと目を向けた。

風にそよぐ田んぼの風景がずっと向こうまであって、どこからか空になっていて。

8月にはほとんど見られなかった透き通った水色の青空が広がっていた。

 

俺は、この思い出の詰まった3LDKのマンションを引っ越そうと決めた。

もう一緒に暮らすことはないのだろう。

澄んだ風が通り抜けた。

 

半年後には、カラフルなランドセルを背負って、花香は小学校に通うのだろう。

 

(おわり)