“自分探し”をしてみましょうか。

先月の1月12日に哲学者の梅原 猛氏が亡くなられた。
梅原先生は、戦後の日本文化に大きな足跡を残した知の巨星で・・・私は大学時代に文学部で哲学を専攻していた人間なので、特に梅原先生の訃報のニュースには悲しさと淋しさを感じた。でも、私のような人間でなくても、普通に新聞の一面に載っていたから、やっぱり大きなニュースであったのでしょうね。
梅原先生は哲学者でありながら、日本の古代史、仏教に関しての本は何冊もヒット作を飛ばし、スーパー歌舞伎の台本を書いたり・・・実にマルチな方だった。
で、私は梅原先生に教わった、なんてことはない。
あまりに雲の上の人過ぎてね。

だけど、私は一度だけお会いしたことがある。
愛知県の碧南市に 哲学たんけん村無我苑というものがあって、梅原さんはそこの名誉村長になられた。もう25年くらい前の話かな。その哲学たんけん村が開苑するというので、その開苑式イベントがあった。
私はテレビの世界に入ったのだが、まだ一年生だったので、そのイベントの使いっ走りのスタッフとして、その開苑式に加わったのだ。大学で哲学科にいたから、上司がなんとなく “ま、お前、手伝いに行ってこいや” といった感じで仕事が回ってきたんだと思う。
どんな仕事をしたか、どんな開苑式だったのか、実はまったく記憶にない。
梅原さんが名誉村長でいらっしゃることは分かっていただろうが・・・。
開苑式で、梅原さんは挨拶されただろうし、そのためにお越しになっていたのだろうが、その話の内容も覚えていない。たぶん、その挨拶を私は雑用スタッフとして会場の隅っこの方で、遠目に見ていたでしょう。

ただその後のことが大事でね、私はその後のことはよく記憶している。
私は後片付けのスタッフと残るので、他のスタッフとは別に、一人電車に帰ることになった。海にほど近い碧南市には、名鉄の三河線というローカル線しか走っていない。単線で、本数も少ない。ほとんどが無人駅という線だ。

私が後片付けの仕事を済ませて、夕刻にその小さな駅に着いた。
ホームを見渡しても、誰も居そうにないのだが・・・ぽつんと年配の人が立っていた。目を凝らしてみると、梅原先生だったのだ。人のいない駅で、遠く田畑の広がる風景を眺めていた。
梅原さんは学生時代にこの地域に住んでいたことがある。実の母親を幼いうちにして亡くし、この地の名士だった叔父の家の養子にもらわれてきた。名古屋の学校まで、2時間かけて通っていたそうだ。
そんな思い出があったからかもしれない。梅原さんぐらいの“大物”になると、普通は名古屋駅から送迎のタクシーでいらっしゃるものだが、梅原さんはそれを断り、各駅停車の電車しかないローカル線に乗ってやってきていた。
それは知っていたが、まさか帰りが一緒の電車になるとは。
本数の少なかったから、合ったのだろうし、他にお客さんが多かったら、私は気づかなかったかもしれない。

私は近づいていき、梅原さんに声を掛けた。“さっき会場でスタッフをしていました・・・”なんてね。
いくらイベントでも、招待した大物ゲストに気安く声を掛ける現場スタッフなんて早々いないから・・・普通は声を掛けるのを遠慮するだろうしね・・・梅原さんも少し馴染まなかったことだろう。
それでも、私が大学時代に哲学を専攻していたことを話すと、好意を持ってくれて、お話しするができた。20代の若造相手に、著作の話やら、普段の生活やら・・・。
ホームで電車を待っている時から、電車の中の4人席で向か合って・・・運良く、長い時間お話しさせてもらえた。
がたがたと揺れる、古い木造の車両に夕日の光が差し込んできていて。潮の風が吹き込んでいて。確か5月か、6月の初夏だったと思う。単線だから、沿線の木々の新緑の葉が触るような近さで擦れていって。
私は、最後にサインを頼んだ。手元には色紙なんて無く、ただスタッフようのカンペという画用紙のような厚紙があったので、それに頼んだ。
梅原さんはマジックペンで、

“ 哲学は一日にしてならず  梅原 猛 ”

と書いてくれた。
私は、会社に帰った後、皆に自慢して見せたが・・・誰も興味を持ってくれなかったね。まぁ、そりゃ、そうだろう。梅原猛さんって、名前は聞いたことがあるというのが、当時の20代の人の当たり前の姿で・・・梅原さんにサインしてもらって、舞い上がるなんて、マニアックなオタクだったということかな。
その後もディレクターとして、何人もの学者、芸能人、政治家、文化人とお会いしたんだけど、私がサインを自分から求めたのは、この1回きりだけだったな。
でね、今回は星占いとは違う話をしたいと思うのよ。
鑑定をしていると、こんな人によく出会う。

「40代にもなって、自分探しをして、恥ずかしいものです・・・。」

この40代というのは、30代だったり、20代だったり、50代だったりいろいろ。つまりいつまでも“自分探し”というものをする人はしているということよ。
“自分探し”というのは、生きていく上で、大きなテーマだからね。
ホロスコープを見れば、多少、その人の性格や運気の流れを知ることができる。
ただ“自分探し” というのは、性格だけじゃないから。
星占いに求められるのは、さらに適職なんてものが加わるでしょうね。あと、どうすれば、彼氏ができるかということかな。

で、そんな皆さんのために、今回はちょっと星占いとは違うアプローチ、手法で、“自分探し”を考えてみたい。

0206ブログ用大きめの紙を用意して欲しい。ちょうど1月が終わったばかりだから、カレンダーの裏なんかがいいかもしれない。大きい方がいいわ。

そこに左の図のように、中学生、高校生・・・会社などと枠を作って。
学歴は人それぞれだから、そこは人によって違うでしょう。会社も、最初の会社、2社目、3社目とね。女性だと、結婚後という枠になるかもね。最後に“今”の枠をちゃんと作ること。
そんな枠を作ったら、その時代に思い浮かぶ、友人、風景、通学通勤スタイル、部活、家族、習い事、趣味など書き込んでいってもらいたい。いわゆるワ
ークショップというやつ。左の見本の図は、かなり簡略していて・・・1つの枠に10個以上は書けるでしょ。それで書いた要素がつながっている、リンクしている場合には線でつなぐといい。

書いていくと分かるんだけど、実はかなり大きい紙が必要だったりする。年配の人のほど、社会人の枠が当然大きくなる。もっと振り返りたくなったら、上に小学生の枠も付け足していくといいだろう。別の紙を継ぎ足して貼ればいいですよ。

人は過去の記憶を “思い出” として振り返ることはいくらでもある。心地良いものや、嫌なものもあるだろうが、ここではそんな思い出に浸るようなことをしようというのではないのよ。

人間は、肉と骨・・・たんぱく質、カルシウム、水なんかが原材料となっているが、それらの身体の材料、要素を拾い上げていっても人間にはならない。そりゃ、そうだ。
例えば、味噌を考えた時に、大豆、塩、水、糀(こうじ)だけで、味噌ができるわけではない。1年なり、3年なりの発酵期間が必要となる。熟成期間。つまり“時間”というやつですよ。
人間というものを考えるのに、その人が長年に渡って、経験してきたもの、見てきたもの、感じたことというものが、やはりその人の“材料”になっている。
その表の全体がある程度、埋められたら、眺めるといい。
そこに書かれた言葉、例えば、陸上部という言葉を眺めると、そこに像(イメージ)が浮かび上がってくることでしょう。自分が過ごした部活の様子。友人や初恋の人の名前なんかもそう。頭の中で動画になっているでしょうし、運動場の感触やジャージ、炎天下の練習、汗、部室の匂いなんかも連鎖して、あなたをその世界に引き込むでしょう。
とうことで、この表に書かれたものは、ただの単語、名詞ではない。
あなたにとっては、“存在”(being)というものなのよ。
この表に“熱気”や“圧”を感じ、いろいろな感情を引き起こしていることでしょうね。しかも情報量が多いから、まさに“ダーッ”となだれ込んでくるじゃないかしら。

梅原猛さんが最初に研究していたのが、実存主義という思想で、“存在”というものから、自分を見ようというものだったのよ。

まぁ、言ってみれば、その書き上げた表全体で、あなたの“存在”が描かれているということになるわ。
上から下へ眺め、また下から上を眺めていく。人生を俯瞰してみる。
熱気があまりに感じられて、この表を他人に見られるのが恥ずかしく思えるかもしれない。
でも、そこは大丈夫。
他人にとっては、ただの単語、名詞の羅列でしかなく、何も伝わりはしない。
陸上部という文字を見ても、風景はほとんど思い浮かばない。もしくは違う風景かな。他の人にとっては、存在ではないということ。存在しないのよ。友人の苗字を見ても、顔が思い浮かぶはずない。そりゃ、そうだろう。

人生を俯瞰してみると、あまりに情報が多く、とても一言ではまとめきれない。
とても“自分探し”の答えにはならない・・・でも、自分探しのヒントにはなるでしょうね。

“今”の先に、“未来”という枠を作ってみれば・・・なんだか、自己啓発セミナーっぽくなるから、このブログででは止めておくわね。書きたい方はどうぞ。

この表を作ったところで、試しに1週間もしたら、また見返してみるといいわ。
実に不思議なことに、この表を見た時の熱気や圧は落ちてしまっている。鮮度が落ちてしまって、活き活きとしたものが無くなっているような感じかな。こぼれ落ちてしまうのでしょうね。
自分を探すというのは、かげろうのようなものなのよ。
追いかけて、捕まえられそうに見えても、また手の内から消えてしまう・・・。

自分が何者であるか、なんてそう簡単に理解することはできないのよ。像や存在をずっと追いかけ続けるようなものなのでしょうね。

で、私は言いたい。

“自分探しは1日にしてならずぢゃ  つぼぼ”