幼なじみ
「40後半のおっさんが新郎かよ。笑わすなよ。」
電話の向こうから新悟の馬鹿にする笑い声が聞こえた。
「いいよ。行ってやるよ。」
私は、この夏に再婚をして、こじんまりと結婚式と披露宴を箱根で行った。箱根神社を信仰しているので、箱根神社で挙式を行い、近くの式場で披露宴を行った。歳も歳なので、人をあまり呼びたくなかったのだが、友人を数人呼ばなくては、人数のバランスが取れないので、幼なじみの新悟に来てもらうように頼んだ。新悟には離婚したことも話していなかったので、というか、あまりに情けない話のようにも思えたので、あまり人には話ていなかったのであるが、・・・最初に新悟は驚いたが、・・・仕方ねぇなというような話しっぷりで受けてくれた。
箱根には、芦ノ湖という遊覧船も通っているような大きな湖があって、北西には富士山が見えた。箱根はその頃、噴火のための規制が掛かっていて、比較的空いていた。そのため、披露宴は行いやすかった。もともと夏のシーズンは式を行う人は少ないし。
何度も箱根芦ノ湖に行ってはいる。ここ数ヶ月は毎月のように来ていたが、式の当日は目が覚めるような晴天に恵まれた。朝から富士山が見えていたのだ。
箱根から富士山を眺めたのは初めてだった。
新悟とは幼なじみで、小学校に入る前から遊んでいた。
私が子供の頃に住んでいた家から、新悟の家までは100mくらいだったかもしれない。走れば1分ぐらいであったろうか。幼い頃はいつも走って行っていたような気がする。
街というほど洗練された場所でもなく、田んぼがところどころにあって、小さな工場、大きな工場も立ち並んでいるような地域だった。工場で働く兄ちゃんたちが、昼休憩には、汚れた作業服そのままに煙草を吹かしながら、近くのパン屋や喫茶店、さらには駄菓子屋まで占領し、マンガ雑誌を読んでいる。そんな合間を縫って、こそこそ遊ぶようなところだったので、広場でサッカーとか野球などというものはしなかった。
家と家が密集していたので、テレビの中の泥棒のように屋根から屋根へ渡っていったり、探検と称して工場の倉庫に潜り込んでみたり、近くに川があって、その堤防から乳母車に乗って坂を下ったり・・・。時には、我々から見て怖いお兄さんばかりがいる会社の独身寮の最上階の5階まで外から登っていき、そこから侵入して、猛ダッシュで1階まで駆け抜けて、外へ抜け出すなんてことを仲間たちとやっていた。部屋を覗かれた20歳前後の男性や、寮の管理人たちに追いかけられ、そのスリルを楽しんでいたのだ。たぶん、追いかける方も楽しんでいたことだろう。そんなお兄さんたちに、自慢のスポーツカーに乗せてもらったりもしていた。
きちんとした遊び場なんて無かったので、・・・というか、滑り台とかが整然としている公園は、私の子供の頃には退屈に感じられるものだった。おそらく今でも子供たちにとってはそうなのだろう。
身体が大きく、“ばば”(ジャイアント馬場のばばという意味)と我々が呼んでいた2つほど年上のお兄さんがいたが、その人が結構いろんなボードゲームを持っていた。だから、時々、トランプ、オセロや人生ゲームなどをやりに遊びに行っていた。
新悟は負けず嫌いなやつで、人生ゲームを数人でやっていると、車のゴール順では負けていても、最後にお金を数える段階になると、結構トップになっていることが多くあった。人生ゲームは全員がゴールしたところで、全員が持っている1000ドルとか、1万ドルとか、おもちゃの紙幣を数える。
よく遊ぶ仲間の中に、新悟の兄が入っていた時、その兄は怪しみ、コースでのお金のやりとりをカウントし直し、検証した。そして、新悟が実際よりは多く紙幣を持っていたことがバレたのだ。新悟はこっそり、お札がまとめて立ててある席の隅のところから高額の紙幣を素知らぬ顔で抜き出していたのだ。
そうなると、兄弟ケンカが始める・・・。そんなことは日常茶飯事だった。
あまりに大差を付けて勝ってしまったので、逆に新悟が拝借したことを明かし、その分を返却してカウントし直したことがあるくらいだった。人生ゲームのドル紙幣が盗まれないように、監視しても、子供というのはすばしっこく、悪知恵が働く。皆が見ていない間にするりと抜いてしまうのだ。
でも、子供の世界は大らかだったので、あまりに新悟が大きく勝つと、「お前、いくらもっていったんだよ」と、まるでズルをするのを黙認しているようなところもあった。
だから、順位を付けても、あまり勝っているとか、負けているとかいう感覚は薄らいでいた。
その“ばば”というお兄さんは、将棋やオセロの強者だった。彼に勝つなんて、誰も為し得ず、到底無理な話なのであった。
そんな中、私が小学4年生くらいの時に、偶然、その“ばば”にオセロで勝ってしまった。
その日は雨で、私はやることがなく、ばばの家に遊びに行って、2人でオセロを夕方までずっとしていたのだ。そのうちの1戦、ばばが気を緩めたのか、奇跡が起こり、私が勝ってしまったのだ。
その奇跡はあっと言う間に広がり、新悟の闘争心に火を付けてしまった。それから連日、新悟は、ばばの家に入り浸り、オセロの特訓をしたのだ。そしてついに新悟は、ばばに勝つほどの腕前を身に付けてしまうのであった。
公園でビー玉遊びをしていても、かなり燃え上がっていた。誰でも子供時代はそういうものかもしれないが。
挑戦的な遊びを繰り広げていたのだが、その一つが乳母車で川の堤防から川を下るというようなものであった。堤防には登るための坂が脇にある。私の家の近くにも、そんな坂があり、上には一本の大きな桜の木が茂っていた。
我々はよく、当時はもう使われなくなって捨てられた乳母車をどこからかで見つけてきて、籠を外し、皆で一斉に体重を掛けて潰して、4輪の台車のような形にしていた。
それに乗って、坂を下るのだ。ハンドルもブレーキも無い。ただ、その潰した4輪の車に任せて、スピード感を味わうというシンプルだが、今思えば、危険な遊びである。危険といっても、すぐにケガをするようならば、子供は馬鹿ではないので、すぐに止めてしまう。この遊びは乳母車を偶然、見つけると続けていた遊びなので、それほどケガはしていなかったと思う。楽しく、大好きな遊びであったが、問題は、廃棄された乳母車がなかなか見つからなかったことであった。
慣れてくると次第に、スピードと走行距離を争うようになっていった。
皆、前傾姿勢を取ったり、手の持つ位置や、脚の位置を変えていったり・・・。
新悟はそうなるとが然、燃え上がるのであったが、そんな中で、右の指をスプリングに挟んでしまったのだ。
あまりに痛そうなので、皆が心配すると、最初は、挟んだ方の左手を右の手で覆い、「大丈夫だ」と言った。だが、手を開けてみると、血まみれになっていた。薬指が、第一関節のあたりで寸断され、かろうじて皮でつながっていたのだ。
指先がぶらりと垂れていた。
新悟はさすがにもがきながら叫び、走って、家に帰って行った。
我々もかなり恐ろしくなった。もう新悟の指先は無くなり、左の薬指は短いままになってしまうだろうと。
しかし、40年近く前と言え、医学の進歩は我々の想像を越えていた。無事につながったのである。神経までつながり、きちんと指が動いた時には、かなり目を見張ったものだった。
それ以降、乳母車で坂を下るという遊びも、当然、禁止となった。
当時は周囲に多くの駄菓子屋がまだ残っていた。
私のお小遣いは1日30円であったが、新悟は50円くらいをもらっていたか、それ以上にいろいろもらっていたようだ。
私の家は経済的には豊かではなく、新悟の家もそれほどお金持ちではなかったのだが、・・・今思えば、似たり寄ったりのものだったが、新悟は、私の方がお小遣いを持っていないことを知っていたので、よくおごってくれていた。
一人だけ、同じ駄菓子屋で余計にお菓子を食べるようなことはしないのだった。
でも、それは私の中に今でも生きていて、私も一人だけ美味しいものを食べることができず、どうしてもお菓子などは分けてしまう癖がついている。
子供の時代には、どうにも退屈に時間が過ぎ去ることがあって、布団にくるまったりとどうでもいいような遊びが楽しかったりする。
夏休み、だらだらと新悟の家で遊んでいると、偶然、押し入れの中に古い貯金箱を見つけた。それは新悟のおばあさんのもので、当時、すでに亡くなっていたかどうかは今は覚えていないが、中には古い旧100円玉がいっぱいに入っていた。我々が生まれる以前の昭和40年代の始め頃まで使われていたもので、今の100円玉より一回り大きなものであった。
新悟はそれが本当のお金だと分かると、「よしアイスクリームを食べよう」と言い出した。
夏休みというのは、すぐにお小遣いが無くなる時期である。なかなか大きめのアイスクリームなどは口にすることができなかった。
近くの駄菓子屋で、旧100円玉を試しに使おうとして、見せたら、“これ、どうしたの?”と訊かれた。
その時点で、新悟と私は何も買わずに猛ダッシュで逃げたのであった。
もともと後ろめたいお金であるだけに、少し質問されただけでも、怖くて仕方ないのだ。
それでも、なんとか少し離れたパン屋さんであまり怪しまれることなく、その旧100円玉を使うことができた。県道沿いの堤防の上にある小さなお店で、クリーニングも扱っていた。少し残念だったのは、アイスクリームの種類がかなり少ないことであった。チョコのかかったバーのアイスクリームは1種類しかなかった。1つの50円のアイスクリームを2つ。
夏の強い日差しをさけて、堤防に植えてある木陰で食べた。目の前に川が流れていたが、当時の川は工場の排水で濁っていて、とても涼し気なものではなかった。赤茶色の水が時間をかけてどんより流れていのだ。ライギョなど不気味な魚ばかりが泳いでいる印象しかなかった。
そんなことを何度か続けているうちに、新悟の兄に見つかり、大目玉をくらうことになった。
新悟は、本当はそんな旧100円玉を盗まなくても、自分の分くらいのアイスクリームを買うことはできたのだ。ただ、一人だけ食べるのが、後ろめたく、私におごって、一緒にチョコのアイスクリームを食べないと気が済まなかったのだろう。
新悟は 1968年9月30日生まれである。
この時期に生まれた人は、木星と冥王星が重なっている。吉角0度である。
木星というのは、財運や広がりを意味し、冥王星は破壊と再生の意味もあるが、吉角では、頂点や徳などを意味する。冥王星は、あの世の星だし、閻魔大王のような審判の星でもあるし。
私は、木星と冥王星のアスペクトを “人徳星” と呼んでいる。
自己啓発本?で有名な斎藤一人さんは、吉角120度で、バリ島の大富豪で映画のモデルにもなった丸山孝俊さんは凶角90度である。凶角90度というのは、木星と冥王星の悪い面(凶角の部分)が出てくるけど、修練して直そうと努力すれば、吉角的な働きになってくる。凶角というのは、強過ぎて害になるので、弱めるように努めていれば、吉角的な働きになってくるものなのだ。特に90度くらいの凶角は、直すべき欠点、短所で、結構中年期までには直っていたりするものなのである。
斎藤一人さんにしろ、バリ島の兄貴にしろ、共通しているのは、人に与えれば与えるほど、倍になって戻ってきて、成功するというパターンである。だから、私は人徳星と呼んでいるのだが、現実にはこの星並びの人が大いに成功しているものなのか、その確率は分かっていない。調べようがない。だが、対面鑑定していて、この星並びを持って、60代でそれなりに経済的成功している人たちは、“徳、信用が何より大切なものだ” とか “人には与えるようにした方がいい” といった言葉を口癖にしていた。
でも、簡単にこの星並びの人の性格的な面で言えるのは、きっぷ(気っ風)のいいというところである。
気前がいいという方が分かりやすいだろうか。
小学校6年生の夏休み、1泊2日の体験学習としてキャンプが催された。私の小学校では、6年生の行事としてあったのだが、私の母はそんなキャンプのことなど知らず、申し込み忘れてしまったのであった。つまり私は行けなくなったのだ。子供にとって、夏休みのキャンプというのは、修学旅行と同じくらい思い出になるイベントだ。
夏の近づくにつれ、私は一人取り残されたような気分でいたのだ。
しかし、私が行けなくなったことを知った新悟は、自分のキャンプ参加を断ったのだ。新悟の母親は相当にいぶかしんだようだ。
キャンプのその当日には、一緒に映画を観に行った。薄暗い中、ポップコーンとジュースを飲みながら、小学生たちが海外の映画を観ていた。
どんな映画を観に行ったかは、覚えていない。あまり印象に残るような映画ではなかった。
新悟にはだらしないところがあった。
小学生の頃、年賀状を郵便局の指定する期限までに書くことができずにいた。新悟は大晦日の日まで書いていたのだった。
で、その後どうするかというと、新悟は元日の早朝、自分で自転車に乗って配達して廻るのであった。
郵便はがきというのは、郵送代が含まれて、今なら52円となっているのであるが、自分で配達するのなら、画用紙でいいのではないかと今なら思うのだが・・・。それぞれの家に新年の挨拶することなく、気づかれない時間に学校中の友人の家のポストを廻った。
元日の年賀状は、一家族分をゴムひもでまとめてポストに配達されるものであるが、新悟からの年賀状だけは、いつも1枚だけぽつりと別になって入っていた。もしくは、郵便局員が配達するより先にうちのポストに入っていたりして、それをお袋が見つけると「新悟くんからの年賀状だけ届いているよ」と不思議な顔をしたものだった。
中学生になっても、家が近いので、一緒に通っていたのであるが、いつも呼びに行くと、「先行っててくれ」という返事が家の奥から声がしていた。他の友人たち数人とも一緒に通っていたので、待っていることもできず、私は先に行っていた。ほぼ毎日のことであった。
他の友人たちと歩いていると、学校の制服が着崩れたまま、新悟は走ってきて合流するのであった。
中学時代はたいがいの人がそうだろうが、多くの友人とつるんでいた。よく試験期間が終わると、皆でボーリングに行っていたのであるが、私はボーリングというものをやったことがなかった。私の家では、家族でボーリングに行くという習慣が無かったのである。
そこで新悟がボーリングというものを教えてくれることになった。あくまで教えてもらうということで、まったく勝負にならない。ただルールとゲームの仕組みを教えてもらうということであった。ただ、ボーリングを知らなくては、他の友人の仲間に入れてもらえないだろうということで、新悟は手取り足取り教えてくれたのだった。
負けずに嫌いの新悟は、十数人の仲間たちと行っても得点を結構稼いでいた。パワーボールの、いかにも闘志丸出しの派手な大降りのフォームで投げていた。田舎の中学生の話である。皆で揃って自転車で行くような範囲では、それほど娯楽は無かった。だから、いつもゲームセンターか、ボーリングというのが、我々の楽しみであった。そんな風に定期テストの後、毎回、ボーリングにばかり行っていれば、そりゃ、上手くなる。仲間の多くが、200点前後で常に競い合っていた。私はそんな高得点圏にはおらず、とてもかなわなかったのだが。
高校以降は学校も違い、会う機会はぐっと減っていった。社会人になってからは一層、会うことはなかった。ところが、10年ほど前、偶然、私が仕事である体育館に行った時、別の催し物で小学生のドッチボール大会がやっていて、駐車場でばったり何十年ぶりかに会ったのだった。
「どっかで見たことある顔だと思ったらよ、」
久しぶりじゃねぇか。
しとしとと雨の降る日だった。
新悟は、私の顔をじろじろ見てきていたので、誰だろうと、お互い顔をじろりと見合わせたのだ。共にもう洒落っ気も無い、おっさん顔になっていた。
新悟にはその頃、小学生の息子がいて、その息子があまりにふがいない試合をしていたので、大会が終わる前に一人帰ろうとしていたところだった。
私は久しぶりであったが、10分ほどしか話す余裕がなく、とりあえず携帯の番号だけを交換していった。
私の世代は、メールをよくやると者とそうでない者とに分かれるが、新悟は後者の方だった。
それでも、社会人をやっていると、なかなか会う機会は失われるものである。
子供の頃の友達というのは、ただ近所だったからというだけで、一緒に遊ぶようになる。しかし、次第に世界が広がってくると、趣味の合う者だとか、内面などで共通の部分を持つ人間が友人となってくる。会わずに月日が経過してしまうと、話題にすら、困ることも多々あったりする。
会うにもどうきっかけを作ろうかと思っているうちに、さらにさらに月日が経ってしまうのものだ。
そのうちに小学生の同窓会が行われることになった。
私は数回、引っ越ししたりしていたり、海外に行っていたりして、卒業名簿からでは “連絡が取れない人間” となっていたが、FaceBookというもののおかげで私の元にも連絡が来たのだ。
そこで、私は新悟に電話をした。新悟は地元の大手ビールメーカーの工場で働いていた。
それこそ、子供の頃、一緒に近くの用水路までおたまじゃくしを取りに行ったこともある会社だった。ビール工場の排水はあまりに栄養豊富であったので、そこに棲む小動物たちは巨大化していたのだ。一種の公害であったが、子供たちにとっては、絶好の大物が捕れる狩猟ポイントであったことには違いない。
私は小学校の同窓会と言われても、実はピンとこなかった。それほど会いたい人がいる訳でもなかったのだ。そもそも私の小学校の卒業生は、引っ越しや私立の中学校にいった数名を除いては、皆同じ中学校に進学したのだ。私にとっては、一緒にボーリングを楽しんだ中学校時代の方がよっぽど会ってみたい友人が多かった。なぜ小学校の同窓会なのだろうという気持ちがあった。実際、出席者は3分の1ほどだった。
唯一、顔を見てみたいと言えば、新悟ぐらいしかいなかったので、そこで、初めて教えてもらった携帯番号に電話することになった。
年明けに、小学校の同窓会があるようだが、新悟は出席するか?
俺は、新悟が出るなら、出るけど。
そうでなかったら、行くのを止めるよ。
正直、別に会いたいというほどの人間は他にはいないからよ。
「そうか。じゃ、俺は行くぞ。」
新悟は二つ返事だった。我々の出た小学校は現在は清須市内にあり、その頃、私は一宮市に住んでいたので、JRの駅まで新悟に車で迎えに来てもらうことになった。
同窓会の内容は、昼間は懐かしい小学校の校舎に遊びに行き、午後から町の会館で懇親会をやろうというものであった。
お前いいのかよ。車で来ると、飲めなくなるぞ。
「いいよ。俺は、普段飲んでばかりだからよ。」
年が明けて、それほど楽しみにしていた訳ではないが、同窓会の日が近づいてきた。
いよいよその前日という日になって、夜中遅くに新悟から電話がかかってきた。
ろれつが上手く廻っていなかった。なんか絡んでくるような話しっぷりだ。
こいつ酔っていやがる。
「明日、9:30に駅だよな。確認の電話だよ。」
ああ、そうだよ。お前、えらく飲んでるなぁ。
「いつもに比べりゃ、そんなに飲んでねぇよ。お前がなぁ、俺に会いたいというから、俺は明日の同窓会に行くんだよ。・・・明日、駅まで迎えに行くからな。横のスーパーの駐車場で会おうな。待ってるからよ。おお。」
あの調子では、新悟は翌日、覚えていないだろう。
私の “会いたいのはお前だけだよ” という誘った時の言葉が、ひどくやつを喜ばせてしまっていたようだった。
翌日、駅を出て、晴れてはいるものの、刺すような冷たい風が吹いていた。
私の予想どおり、待たされることになった。待ち合わせ時間の9:30に電話したら、「今から急いで行く」という慌てた声の返事がしてきた。
20分ほど遅れて、ロータリーに車が入ってきた。新悟は窓を開けて、手を振ってきた。
「悪りぃ、悪りぃ」
新悟の顔はまだ赤っぽく、息も少し酒臭いように感じた。昨晩は、3時まで飲んでいたという。
同窓会に行くと、私は海外で絵描きをやっていたということで、珍しがられ、いじられたところがあった。同窓会というものは、出席するのは億劫だが、出席してみると、意外に楽しいものである。小学校の頃とはまるで変わっているが、それなりに話は盛り上がるもので、たまにやるイベントとしては十分に刺激的なものだった。
懇親会が終わり、さらに居酒屋で飲み会に行こうということになったが、・・・それは予定外だったので、断った。なにせ、新悟が車で来ていて、飲めないことが分かっていたのだ。私だけが飲むわけにはいかない。それはさすがに気が引けた。
駅から最初の懇親会の場所までは、歩いて行ける場所であった。だが、新悟が気を使って、車で迎えに来てくれていたのが分かっていた。
だから、私も歩いて先に行くことはせず、20分近くも駅で待っていたのだ。
なおさら、私一人、皆と酒を飲むわけにはいかない。
私は、皆と分かれた後、新悟に車で送ってもらった。しかし、駅ではなく、私の住んでいる一宮市まで送ってくれるというのだ。車でも1時間近くかかるところだった。日の暮れた後の夜のドライブで結構、話しをすることができた。家族のこととか。
歳を取ってくると、経験したことや、仕事や趣味の方向がずいぶんと距離が開いてしまって、たわいない話はいっぱいするが、どこか本当に話したいことを話そうとしても上滑りしてしまう。
幼なじみとは、そういうものなのだろう。
その同窓会以来、会うこともなくなった。しばらくして、仕事で新悟の勤めているビール会社の人たちがボランティアで川の清掃をしているのに出くわした。新悟というやつがいるしょ、と工場長にふと尋ねたところ、御殿場の工場に単身赴任しているという話を聞いたのだった。
1968年前後生まれの者は、・・・というより干支でいう、申年生まれの者は、その一部の者がここ数年、海王星と生まれた時の木星が凶角180度位置を経験している。私は “どん底星” と呼んでいるが、金欠になったり、人と疎遠になったりして、独りぼっち感を味わうことになりやすい。木星位置が獅子座の終わりから乙女座の始めの方にある人たちが今、その星回りになっている。
木星は1周12年なので、実は干支と一致する。1956年生まれや、1980年生まれ、1992年の申年も同じである。さる年全部ではない、現在、この“どん底星”の星回りに掛かっているのは、夏から秋に向けて生まれた者だろう。
気に掛かるようなら、ホロスコープを実際に作ってみると良いだろう。
私は、その星回りの間に離婚を経験したし、新悟は今、単身赴任中というわけである。
結婚式の披露宴では、新悟はこれまた酒を上機嫌に飲み、私の兄の家族に饒舌に話しかけていた。誰にも馴れ馴れしく話しかける人間なのだ。酔っていればなおさらである。見ようによっては、たちの悪いおっさんだ。
新悟の生まれた時の星並びは、水星(コミュニケーション)と金星(快楽)が0度で重なっている。ほかにブレーキを掛ける星並びが無ければ、たいがいおしゃべりな人間である。まぁ、新悟の場合、星を見なくても、子供の頃から見てきているから、調子のいいやつだということは十分に分かっているのだが。
なにせ、水星と金星が0度吉角というのは、明石家さんまさんと同じ星並びなのだ。
近所の幼友達だから、当然、私の兄も知っている。ただ、新悟は本当に絡んでいく男で、甥っ子や姪っ子にも、私が昔どんな子供だったかを陽気に話しかけていた。別に話さなくてもいいものを。
芦ノ湖の奥にある富士山が本当によく映えていた。空は水色。そこに真っ白な雲が流れ。湖は澄んだ深く濃い藍色をして、細かく吹く風に小さな波が揺れている。
青い青い、夏の風景だった。
多くが小田原駅行きのバスに乗る中、御殿場行きのバスを待つ新悟は、少しだけ残ることになった。
私も着替えに部屋に戻ろうとした時、ばったり新悟に会った。
今日は来てくれてありがとう。
新悟はまだ機嫌良く酔っていた。
「俺は、まだ数年、御殿場にいることになりそうだ。俺が御殿場にいる間に、ゴルフしようぜ。
いっぱいゴルフ場があるからよ。
教えてやるよ。」
私は、まだゴルフというものには興味が湧かないのだな。今はたぶん、練習する時間も、その気もない。
新悟というやつは、子供のころから、いつもにこにこしている。
偶然だが、箱根が御殿場の近くで良かった。そのおかげで気兼ねなく、再婚の結婚式に新悟を呼ぶことができた。
でもよ。
新悟が清須に帰って、じじいになって、どうしようもなく、暇になるだろうから、そしたら、またボーリングでもしようぜ。
「ボーリングだぁ。面白い。
スポーツでは、お前に負ける気がしねぇよ。」
こう言っては何だが、
俺だって、
お前には勝てるとは思ってねぇよ。