ギタリスト

私は、ある50代のギタリストさんを鑑定させてもらったのよ。
村上幸史さん。私より10歳くらい年上の方で、なかなか男前の人なのよね。
六本木の大きなビルの隅っこで。
休日の朝だったから、人が少なく、街中なのに足音すら、あまり聞こえなかった。
間接照明で光が柔らかく、人の生き様を語ったり、聞くにはうってつけの場所だったわ。

村上幸史さんは、広島県尾道市生まれ。
私は広島というと、坂の急なところばかりというイメージを持つけど、尾道というのは瀬戸内海が見渡せる。海が広がっているけど、向かい側にある四国とか、手前の島々というか、陸地が結構、視界に多くある。海というより、壮大な水路といった風景かしら。絵に描くと、海の深い青色と、島の緑色と、その上に空の澄んだ青色が互いにぎざぎざに入り込みながら広がっていると。
なにせスケールが大きいからダイナミック。
山に登ってそれらの島を眺めていると、それぞれの島に、それぞれの生活があって、それぞれの物語があるのだろうなぁと、想像を描き立てられてしまうところなのよ。こんな話をしているだけで、潮の匂いが風に乗ってやってくるでしょ。

そんな瀬戸内海に面した街で、村上さんは男ばかりの3人兄弟の末っ子として育つ。
昭和30年代、40年代のまだ日本がお金持ちでなかった時代。この頃の話となると、「ALWAYS 三丁目の夕日」のようなわんぱくな少年として、やんちゃに駆け回るようなのが定番だけど、彼はそうではなく、背が低く、身体の弱い男の子だった。
そんな彼が小学生の頃に出会ったのが、ギター。
兄が持っていたギターを、面白半分にこっそり遊び道具として弾き始める。指で弾くと、甲高い音を立てる、優美な曲線を持つ楽器に彼は引き込まれていくと。
でも、兄が進学するとともに、ギターも持って行かれてしまうのよね。
楽器が無くなって、肩を落としている彼を見て、母はギターを買い与える。
村上さんの両親は、父は地元の郵便局員で、母も働いていて、・・・つまり裕福ではないけれど、共働きで倹約家の親のおかげで、兄たちは地元を離れて大学に進めたそうで。
当時は、今ほど大学進学率は高くなかったのよね。まだ高卒が当たり前の時代だったから。親戚の中でも、大学までいったら、“○○ちゃんは偉いわねぇ、大学まで行ってぇ”とか“大学まで行かせてもらえてぇ”なんて言葉が掛けられた時代である。

そんな時代に、小学生の彼におもちゃのような安物とはいえ、母はギターを買ってあげたのだから、村上さん自身が相当ギターに入れ込んでいたか、・・・共働きで相手をしてやれないところへ、兄までいなくなって、淋しそうにしている彼を見ていられなかったか・・・。

中学に入ると、村上さんはさらにギターに熱を入れるようになる。当時はフォークソングが流行っていた時代なので、ギターをやる友人もいた。そんな仲間たちとギターを弾き、腕前を披露し合っていたのだ。一番下手だったという村上さんは、さらに腕を上げたくて、両親にせがんで通信教育を受けさせてもらった。
尾道という街では、中学生がギターを学ぶには通信教育しかなかったのだ。
最初に独力でマスターしたのが、ギターを学ぶ者の定番、「禁じられた遊び」だ。
一度聴くと脳裏に焼き付いてしまうような、陰影のある曲。1950年代の有名なフランス映画のテーマ曲だ。この曲は実は譜面通りに弾くのは難しいものではない。この曲にはギターという弦楽器にしか出せない、ストレートに胸を打つ響きがある。この情感を奏でるには熟練した技術とセンスが要る曲なのだ。中学生の頃の村上さんにどこまで弾きこなせたかは、今では確認しようがないが。
そのほか、「アルハンブラの思い出」などを独学でマスターしていく。
村上さん曰く、この時期が人生で最もギターに没頭した時期なのだそうだ。

そんな姿を見て、郵便局員をしていた父は彼にギターを本格的に学ばせることを考えるようになったのね。その気合いの入れようはかなりのものだった。中学卒業前の三者面談で、父が担任の先生に「うちの子にはギターを習わせたいので、練習時間を確保するため、通学時間の少ない一番近くの県立高校に行かせたい」と言った。ワンランク上の、別の県立高校を薦めたかった担任は驚いていたが、父が押し通したのだという。
父は知人に尋ね回り、尾道市内にスペインで本格的に学んできた先生を見つけてきた。
そして、村上さんは高校進学とともにギターを習い始めた。

安物だけれども、国産の手作りのギターを買った。お小遣いを貯め、それでも足らない分は父が出してくれた。
体裁の整ったギターを手にした村上さんは、高校でクラシックギター同好会を設立する。この村上さんの創った同好会はその後、クラブに昇格し、40年以上経った今も存続しているという。
ギター教室はバスを乗り継いで1時間かかるところにあった。毎週、ギターを担ぎ、夏も冬も、山と海を眺めて揺られ揺られて、3年間通った。1レッスン30分であったが、いつも村上さんだけ1時間以上になっていた。先生は彼の才能を見込み、貴重な時間を割いてくれたのだった。

ここで、ホロスコープを作ってみましょう。ハウスの入るプラシーダハウスで見てみたいのですが、
ここでは、My Astro Chartというサイトを使ってみましょう。
http://www.m-ac.com/pages/setting_j.php
村上さんの生年月日は、1958年 3月 14日 8:52 生まれである。
このシングルチャートで、村上さんの性格を見てみると、MCに金星が重なっている。MCとは生まれた時の天頂のことであるが、そこに惑星があると、その性質が最も人生に現れることとなる。金星はヴィーナス、芸術、快楽、遊びの星である。芸術に生き、楽しく生きられる人となる。遊び人とも言える。
また労働を意味する第6ハウスで、海王星(感情)と木星(拡大、財運)が重なっている。私はこれを“バブル星”と呼んでいる。実力以上に評価されることが度々起こるからである。そもそも感情が拡大するという意味があり、浮かれやすい、陽気な性格であったりする。もしくは“感性が銭になる”と読んでもいいだろう。さらにその2つにドラゴンヘッドという力を増強させる星も重なっている。それが第6ハウスという仕事に関わる部屋にあるのだから、アーティストへの道を進むというのも適している。

村上さんは高校卒業後、故郷の尾道を離れることとなる。彼は尾道でギターを学ぶことに限界を感じていたのだ。高校の3年間通ったギターの先生の薦めで、伊豆にあるギターの専門学校に通うことになった。
同じく海の見える街である。太平洋だ。ただ尾道で見ていた瀬戸内海とは違い、地平線が広がっている。遠い遠い世界に思いを馳せる海なのだ。眼下には田方平野から駿河湾。北西を見れば、富士山が一望できる。毎日のように、駿河湾に沈むこの世の物とは思えない美しい夕日を眺めては「こんな素晴らしい所で毎日生活するなんて、これからの人生でおそらくないよね」と、仲間とよく語り合っていた。
山里にある全寮制の学校だった。当事は空気も綺麗で、キジや啄木鳥、ウサギに狸、狐などもしょっちゅう見かけた。
弱かった体も、ここでの生活で徐々に丈夫になった。毎晩のアルコールと共に、先生、友と語り明かす日々は、音楽家そして人間としての基礎を学ぶに余りあったという。

そんなのびのびとした環境の中で、仲間たちとギターの腕を磨いていく。技巧派の彼は、高く評価され、ステージでも観衆を魅了した。武道館で17,000人の観衆の前で演奏したこともあった。

4年生になり、彼は教育実習の単位を取るために東京校へ編入する。ギターという同じ志を持つ仲間たちとの伊豆での生活。それがあまりに充実した3年間だったから、その編入は本人のあまり望むところではなかったらしい。

そして光に溢れた生活は一転する。
この年の8月、彼の右手は突然、動かなくなった。

ここで星を診てみたいと思う。今度はダブルチャートで診てみる。
http://www.m-ac.com/pages/doubleset_j.php
村上さんの生年月日は1958年 3月 14日 8:52 生まれのまま
アスペクトを見やすくするため、ハウスなしでチャートを作成しましょう。
彼が高校を卒業し、伊豆に行ったのは、1976年 4月 1日。
東京校へ編入したのは、1979年 4月 1日。
入学日を考えているので、引っ越しはそれより早いでしょうがね。

内側に彼の生年月日、外側に1976年 4月 1月を入れてみましょう。時間は適当で10:00としましょう。アスペクトを見やすくするため、ハウス無しにします。
彼の生まれた時の木星・海王星(&ドラゴンヘッド)、火星と、この時の木星と土星でグランドクロス(魔の十字架)を作っています。十字架状になっているのが、お分かりになりますでしょうかね。
これは別れや滅入ること、我慢を強いられることを意味していますね。また経済的にも痛い出費があったことが読み取れます。ただ、グランドクロスが奈落の底に落ちるようなことかというと、そうでもなく、人生の大きな分岐点による衝撃があることを示していることもよくあります。尾道から伊豆という移動は、18歳の青年にとっては、かなりしんどいことだったのでしょう。

次に1979年 4月 1日を外円に入れてみましょう。この時の運気を読むことができます。
彼の生まれた時の木星・海王星、火星と、この時の木星がTスクエア(魔のTの字)を作っています。
海王星と木星の凶角を私は“どん底星”と読んでいますが、そのTスクエアで、火星まで入っているので、東京校への編入は滅入る出来事だったのでしょう。少々苦痛があったかも。

右手の指が動かなくなるのは、この年の8月ですが、分かりやすくため、少し日にちをずらして7月1日を入れてみてください。彼は生まれた時、金星(芸術、美、快楽)と天王星(変化)が180度凶角なのですが、そこにこの時の木星(拡大)が並びます。彼の天王星と木星が重なっています。

凶角180度の線上に、金星、天王星、木星が並びます。木星は拡大ですが、凶角180度位置の時は、タロットカードの逆位置のように、逆の意味になると考えて下さい。つまり“縮小”です。芸術が転じて、縮小する、滅入ると言ってもいいですし、木星を財運と考えるなら、“損をする、失う”と読んでもよいでしょう。もっと情報を加えるなら、彼の金星はMC(天頂)に乗っています。天王星はIC(天頂の真逆)に乗っています。ここの線上に星が乗るということは、強く作用するということです。
8月には木星はこの凶角180度線上は去りますが、連続して太陽、水星、金星が乗ってきます。つまり凶角が“連打”された形になったのです。

21歳の村上さんの右手の指が突然、動かくなくなった。気づいてから、わずか1週間でギターが弾けないほどになってしまう。中指が内側に丸まってしまうように、引っ張られてしまう。手全体が突っ張ったようになってしまう。
鍼灸師には練習のし過ぎによる腱鞘炎だと言われ、治療を続けたが、まるで効果がなかった。
自らもリハビリに努め、1年ほどで、腕の突っ張った感じは解消する。しかし、中指のコントロールは思うようにできないままだった。

学校を卒業し、ギターの先生として就職、その3年後に、彼は母校の伊豆の音楽学校の職員となる。村上さんは、優秀な演奏者だったので、指の調子は悪くても教員の職に就くことができたのだ。
指の回復にはそれほど時間は掛らないだろうし・・・。
指がうまく動かなくとも、生徒たちにギターを教えることはできた。年数回の演奏会にも参加していた。演奏会で一緒に弾くことを仲間に誘われると断れなかったが、・・・単独で演奏することはなかった。
観客や周囲には、指が動かないことは悟られなかったかもしれない。しかし、彼本人は本領を発揮できない、思う存分ギターを弾けないことが苦痛でしかたなかった。

右手の指はいつ治るのだろうか。そんな焦りを募らせていった。ゆっくりと村上さんは精神的に追い込まれていくが、ギターを諦めることはできなかった。
観衆の前での音楽活動の場は、ギターから指揮者へと変わっていった。ギターオーケストラの正指揮者として、シドニーのオペラハウスやメルボルン、北京、南京など海外でも活躍するようになった。

しかし、右手の中指は一向に回復する兆しはなかった。

重くのしかかる閉塞感を持ったままの日々であったが、彼は結婚する。
1983年 7月。幸せな日々が続いた。
その3年後の1986年 12月には娘さんが生まれる。
好きなギターに関われる仕事をすることができ、温かい家庭を持つことができた。彼は娘を溺愛する。
娘には習い事をたくさんさせた。その一つにピアノがあった。不器用そうにピアノを弾く娘が微笑ましく思えた。
音楽学校の主任教授にも就任し、仕事も順調だった。

1997年 4月には地元にある韮山(にらやま)時代劇場の会館記念公演、オペラ「頼朝」の指揮を執った。
ここに村上さんは自分の使命を感じた。
「平家」縁の瀬戸内に生まれ、ギターを弾きはじめ、オペラの主役「源頼朝」縁の地でギターを学び、東京で指に障害を持ち、その事がきっかけでギターオーケストラの指揮者になり、再び韮山に舞い戻り、オペラ「頼朝」に出会い、指揮を振った。
このオペラで指揮を奮うために自分は生まれてきたのだと。
そしてすべてを捨てる気持ちになれたという。

彼は音楽学校を退職してしまう。1998年 3月。
1998年 4月 別居。妻と11歳の娘を家において、村上さんは出ていった。
藤沢に狭いアパートを借りた。何も仕事はしなかった。心は空っぽだった。
半年後、郵便受けに妻からの一通の手紙が入っていた。
離婚届だった。
村上さんは、判を押し、返送した。

ここで村上さんの年譜通りに、再びダブルチャートを作ってみましょう。
http://www.m-ac.com/pages/doubleset_j.php
村上さんの生年月日は1958年 3月 14日 8:52 生まれのまま
最初の結婚:1983年 7月1日(1日というのは適当です)。
彼の生まれた時の木星・海王星に、この時の冥王星と土星が重なっている。大きな星が4つも吉角0度で重なる幸運期である。未来への地固めをする星並びである。
しかしだ、彼の土星(ブレーキ)に、この時の海王星(感情)が重なっている。海王星と土星のアスペクトは表情・感情を隠す、ポーカーフェイスを意味する。感情は決して高ぶってはいない。また彼の水星(知性)と海王星(感情)が凶角90度を形成している。これは混乱や、感情を押し殺していることを意味する。彼にとって、この結婚はそういうことだったのだろう。

娘さんが生まれたのは1986年12月ですが、この頃は、かなり良い運気ですね。彼の海王星・木星にこの時の冥王星が吉角0度重なっている。そこへまたこの時の海王星も吉角60度に位置している。海王星は一周およそ160年、冥王星はおよそ240年。影響はそれぞれ6年、8年くらいである。つまり長期に渡って影響を受ける星なのである。

一方、退職は、1998年 3月31日。
もともと彼の生まれた時の木星・海王星は、彼の火星と凶角90度位置にあるのですが、この時の海王星が火星に重なっています。つまり木星・海王星・火星・海王星が凶角90度位置に並んでいるということ。まぁ、退職ですから、滅入ってしますしね。どん底星ですし、感情のコントロールもできずにいたことでしょう。だから、退職したのかな?
また同時に彼の金星(愛情、芸術)と天王星(変化)の凶角180度線上に、この時の天王星が乗っています。彼の金星とこの時の天王星が重なっているのです。つまり金星・天王星・天王星が180度凶角線上にあるということ。愛か、芸術が悪い方向に変化したということです。

離婚届けが送られてきた:1998年 10月1日(1日は適当)
ほぼ上の1998年 3月31日と同じで、木星・海王星・海王星・火星の凶角90度位置があり、金星・天王星・天王星の凶角180度も形成されたまま。
ただこの時、彼の太陽に木星が0度吉角で重なっている。生活が一新されたということである。

40歳になっていた村上さんは、今の自分にできることはこれくらいかなと、清掃会社に就職した。
仕事は草刈りやゴミの回収だった。パッカー車と呼ばれる圧縮する動機の付いたゴミ回収車で回り、集積場まで運んだ。
精肉加工の会社に行くと、ハムのごみが山積みになっていた。夏場はその下にウジ虫がびっしり。
それをゴム手袋で直接すくい回収する。車に積み込み、肉のごみが圧縮されると、時々廃液が飛び出し、頭から全身、腐臭のする肉汁にまみれた事も幾度かあった。
慣れない仕事であったが、だんだんと生活のペースが出来上がっていった。
独り暮らすアパートと仕事場とを往復するだけの生活。時々、憂さ晴らしに飲むコンビニで買うビール。
休みの日には、ビル清掃のアルバイトをした。
妻子の住むマンションの家賃、車のローン・・・。生活はかなり厳しかったという。
音楽とは無縁の生活となったが、時々思い出しては、部屋の片隅に立て掛けてあるギターを弾いた。目に入らないよう押入れに片づけておいても、ついつい取り出してしまうのだった。
質素で、以前のような指の回復を期待しなくてもよい生活は、ある意味、楽であった。

しかし、そんなささやかな村上さんの生活も長くは続かなかった。
清掃の仕事を始めて3年ほど経った2002年10月。
会社が経営不振に陥り、リストラされた。

2002年10月1日のダブルチャートを作ってみれば分かるけど、
彼の生まれた時に出てきている金星・天王星の凶角180度ライン上に、この時の木星と海王星が乗っている。つまり海王星・金星・天王星・木星の凶角180度。
滅入るような出来事が突然起こるような悲しい星並び。

村上さんは仲間に薦められ、清掃の仕事を自分で始めた。這い上がる気持ちだった。
掃除の機械は、最初は仲間から無償で譲り受け、その後は徐々に機械を増やし、いつの間にか請け仕事も増えていった。
2005年には、新しい家庭を作ることができた。再婚したのだ。
結婚相手もバツイチで、娘がいた。再婚と同時に、建売の新築も手に入れた。
その娘さんも2012年ごろに子供を産み、村上にも孫ができた。
清掃員として働き、休日には、大好きな釣りをするという、穏やかな家庭人の生活をやっと手に入れたのだった。
ギターのことなど、もう村上さんにとって、大昔の話となっていた。

が、ある日、音楽学校の時代の友人から知らせを受けたのだ。
村上さんの右手の障害は腱鞘炎などではなく、「フォーカルジストニア」という病気ではないかと。
音楽の演奏家、声楽家、理容師などが患う特殊な病気なのである。その発病の原因ははっきりとは分かっていない。

音楽学校時代の友人も同じ病気を患っていたのだ。ただ村上さんほど、長くはなかった。
その友人は2013年4月に手術を受け、治ったというのだ。
もうとっくに諦めていた右手の中指。その指が治せる方法があるというニュースを聞いたのだ。
待ちに待った・・・一筋の光がやっと差し込んだ瞬間だった。
村上さんも治療を受けることにした。

2014年 2月。友人と同じく、東京女子医大 脳神経外科で手術を受けた。
フォーカルジストニアという病気は手ではなく、脳神経を患ったものだったのだ。
手術は頭に施された。
局所麻酔のため、意識は持ち続けたまま、頭に穴を開けられる。脳の手術である。
担当の平先生は、手術中、ギターを弾くよう指示した。村上さんは最初、耳を疑った。
これは弾く指の回復状況を直に確認しながらの手術を行うというものなのだ。
そして手術の処置の終了が告げられた直後、指に軽くなっているのが実感できた。諦めてしまっていた右手中指が、思うように動くようになっていた。回復したのだ。

村上さんは平先生に向かって、思わず言葉を発した。
「呪いがとけました。」

発症してから、実に36年の年月が経っていた。

では、ここでまたダブルチャートを作成してみましょう。
http://www.m-ac.com/pages/doubleset_j.php
村上さんの生年月日は1958年 3月 14日 8:52 生まれのまま
外円は 2013年 4月 1日。(1日というのは適当です)
彼の木星・海王星にこの時の土星が吉角0度で重なっています。さらに吉角120度位置に、この時の海王星があります。実力以上に浮かれる出来事が起こるバブル星ができているのです。
さらに注目すべきは2013年7月1日ごろ。
さらに彼の木星・海王星に、この時の土星が重なっています。さらに、その吉角120度位置に、この時の木星が来ているのです。
つまり土星・海王星・木星・木星・海王星でグランドトライン(幸運の大三角形)を形成しているのです。私は、木星と海王星の吉角を“バブル星”と呼んでいます。実力以上に浮かれる出来事が起こりやすいのです。土星は、未来への基盤固めを意味しています。
木星は1周12年、土星は30年、海王星は160年。
確率で考えてもらえれば分かると思いますが、この5つの星で、幸運の大三角形を作るなんて、早々ありません。一生のうち、一度も経験できない人がほとんどです。ミラクルな星並びなのです。
おそらく、彼はこの2013年の夏、人生でも最も希望に満ち溢れた時期を謳歌したことでしょう。

指が動く。
村上さんにとっては、信じられない奇跡の瞬間だった。
36年間、動かなかった右手の中指が、わずか3時間の手術と10日間の入院で完治してしまったのだ。
フォーカルジストニアという病気は、村上さんが発病した36年前にはほとんど知られてはおらず、また治療法も考案されていなかった。そういう意味では、医学が発達するのを待つしかなかった病気なのだ。
運が良かった。東京女子医科大学の平 孝臣教授との出会いが無ければ、この奇跡は起こらなかった。
むしろ、平先生の存在を知ったことこそ、奇跡だったのだろう。
脳外科医にとって、脳細胞をいじる事はタブーと言われている。
平先生はその厚い壁を打ち崩し、学会からの非難を一身に浴びながら、10数年間もあえて手術をしてきていた医師だった。

フォーカルジストニアの発症は、ギタリストだけではなく、あらゆる音楽家、管楽楽器奏者は唇に、声楽家は声帯に、理容師ははさみを持つと発症する。細かい動作を長時間強いられる人にのみ現れる職業病なのだ。脳にそれぞれの動きを疎外する新たな通信回路が出来てしまい、機能障害を起こす。
だから、その邪魔な回路を切り離す事で障害を取り去る手術なのだが、脳の中心部の「視床」と呼ばれる部分に近い場所を処置するので、よりリスクが高いそうだ。
平先生は、その場所の特定を計算式で正確に割り出し、手術を行っている。世界中でフォーカルジストニアの手術が出来る唯一の先生なのだ。
村上さんによれば、この手術が健康保険適用になっているのも、おそらく平先生の働きかけがあったからだという。彼が東京女子医大病院に支払った費用は、10日間の入院費も含め、わずか10万円弱だった。
先生の名字が「平」ということにも、妙な因縁を感じていた。

回復後の村上さんは、少年の頃のように、再びギターに没頭した。
水を得た魚のように一気にレパートリーを増やしていったという。

そして昨年 2015年9月。
村上幸史さんは、記念復帰リサイタルを行った。36年ぶりの初リサイタルだ。

学生時代から、何度も演奏会を行ってきた。右手が動かなくなってからも、ステージには立ってきた。しかし、単独の演奏会はこれが人生で初めてだった。

村上さんはあと2年で、還暦を迎える。今、ギタリストとして演奏を楽しみつつ、フォーカルジストニアという病気の啓蒙に努めているのだ。
実際、村上さんの影響で、手術を受けるという人がすでに4人が出てきている。
村上さんは、人生の半分以上を失望の中にいた。若い演奏者たちに、私と同じような思いをさせたくないから、この病気の存在を多くの人に知ってもらいたいのだ。実際、彼の紹介で手術を受ける人の中にも、腱鞘炎だと思い続け、失望し、うつ病を患った人がいた。
今年は、他にも復活を遂げた仲間と共に、「フォーカルジストニア復帰ギタリスト達の夕べ」なども構想中という。

村上さんの生まれた時の星並びが、海王星と木星が0度で重なっていて、その2つの星に対し凶角90度のところに火星があるとか、金星と天王星が凶角180度に位置しているということがあって、普通の人の星並びより、Tスクエアなど凶角が現れやすい。

でも、もし35年前に会って鑑定し、村上さんから「指は回復するでしょうか」と尋ねられたら、私はどう答えていたかしら。腱鞘炎だと私も思うだろうし。
それに2013年にバブル星の幸運の大三角形というミラクルな星並びができることが分かっていたとしても、
「およそ35年後に、奇跡が起こるかもしれません。」
なんて、・・・とても言えない。
だって、“35年待って”なんて言われたって、救われないものね。言われない方がマシかもしれない。そういう意味では、もうこれは星占い師の域ではないわね。
このレベルまで来ると、“人生、必ずいいことがいつかやってくる”ということを信じるのみということでしょ。

いいこと?
村上さんは、以前の“普通の”姿に戻っただけですよ。
その“普通”があまりに遠く手が届かなったということなのよね。
いつか いいこと がやってくるのですよ。  
たぶんね。

※このブログは村上幸史さんから原稿の許可を得て、掲載しております。