小説「この世の果て」 (12ハウスの男のSさん著)


以前、ブログ「12ハウスの男」で紹介しましたSさん。
私、若い時分は、小説の書き方を教わったり、本をいっぱい貸してもらったり、Sさんの家でごちそうになったり、山小屋の建設や修理を手伝わされたりして・・・大変お世話になっているのですがね。

で、まぁ、今でも講座の時なんかでは、“あの方はどうなったのですか?”と時々、尋ねられたりする。

ブログで紹介したのが、2018年ですが、実は、その翌年ぐらいに脳梗塞をしまして、入院していたのです。
で、退院してからは・・・さらに輪をかけてのひきこもりの生活を送っているのです。
身体の左側が不自由になってしまっているのですよね。
そもそもひきこもりが性に合っている人ですので、ネットフリックスやHulu 三昧の生活は心地良いそうで・・・ワイドショーを見ては、タレントコメンテーターの知ったかぶりに、腹を立てて、罵っては眠ると。
晴れた日に、義理の娘さんに連れられて散歩するくらいしか、外に出ないそうで。

それでも、小説を書きたいという欲求はついえておらず・・・左手が動かなくても、右手一つで書いたるわい、といった具合で、パソコンのキーボードと格闘しながら、腱鞘炎になりながら、書き続けているのですよ。

で、ここ数年もちゃんと地方の文学の公募で賞やら、佳作やらで賞金をゲットしてる次第です。

この度、その1つ「この世の果て」を私のこのブログサイトで紹介させて頂くこととなりました。

ということで、今回のブログは、いつもと違って、特別編です。私が下の小説は書いておりません。ホロスコープの解説はありません。

さすがに小説ですので、いつも私のブログとは比べ物にならないほど、はるかに長いです。一気に読み終えることは難しいでしょうから、どこまで読んだのか、なんか覚える方法、マーキングができるといいですね。
小説本文は広告の下から始まります。


《広告》




「この世の果て」

 『心が落ち着きます。嫌なことも忘れます、写経をすると』

妻が認知症だというその男は、老婆の耳に口を寄せて大きな声で言った。幸恵に付添って行く病院の待合室でのことだった。その男の、嫌なことは忘れます、と言った時の、何だか妙にすがすがしげな声の感じが正勝の耳に残って、興味も無かったが、老人会で偶然開講されていた写経サークルに入ることにした。それなのに、その最初の日に自転車で転び右腕を骨折してしまい、二ヶ月入院した。退院して一ヶ月経った昨日から、東急ハンズの紙袋に入ったままの写経セットを見つけて始めた。 

観自在菩薩。行深般若波羅密多時。

最初の「観」の字が、いきなり写経用紙の金色の罫線を跨いでいる。経文の漢字は画数が多く、利き腕でない左では上手く書けない。何とかここまで書くと、正勝は机に筆ペンを置いた。たった二行を書いただけで疲れてしまった。本来筆を持つことをしない左手の指は遠隔操作のロボットアームのように、自分のものでないもどかしさがあった。

「いいですよ、写経。このままでは余り事故前と同じように右腕が使えるとは限りません。できるならそうやって左腕も使えるようにすることに越したことはありません」

昨日の一ヶ月検診の時に主治医の若井は言った。言外に、もう元には戻りませんよ、障害は残りますと告知したかのような安堵が見えた。

壁の時計を見ると午後三時。コミュニティセンターに妻の幸恵を迎えに行く時間が来た。

「さあ時間だ」

正勝は声を出して立ちあがった。左腕は強張り、膝は閂を掛けたように思うように伸びてくれない。もうすぐ七十歳。身体はどこもかもが音を立てて軋んだ。

幸恵の汚れものや紙オムツを入れるビニール袋と財布や自分が路上で行き倒れた時の為に住所や緊急連絡先の民生委員の電話番号、血液型、現在飲んでいる薬の名前を書いた紙を入れた鞄を肩に、玄関を出た。

外の陽射しは明るかったが、庭は伸びきった雑草を昨日シルバー便利隊に頼んで刈って貰ったので、すっきりしたというより何だか寒々としてしまっていた。見れば、隣の横井の家の雨戸は今日も閉まりっぱなしになっている。横井は正勝と同じ年で、正勝は市役所、横井は県庁だった。それぞれ同じ年に定年退職したが、家が隣でも横井とはあまり親しく口を利いたことが無く、行き交えば軽く会釈する程度だった。横井はこの冬、呆気なく脳溢血で逝ってしまい、三月には残された妻は東京の長男宅に身を寄せたと聞いている。まだ一年も経っていないのに横井の家はもう何年も人が住んでいなかった廃墟のようだ。

「おじちゃん、こんにちは」

三歳くらいの女の子が挨拶した。

「こんにちは、娘のところの孫でして」

町内自治会長の橋本だった。

「いやあ、久しぶりに、こんな可愛らしい女の子に挨拶されたなあ」

正勝は思わず相好を崩した。

「けっこうやんちゃで困ります」

橋本は嬉しそうに困った顔をして笑った。

「子供はそれくらい元気なほうがいいですよ」

「そうですよねえ」

正勝に子供は居ない。あの頃不妊治療も進み、幸恵が一度夫婦で検査を受けようと言ったが、正勝は首を縦に振らなかった。どちらかに原因がある。男の俺なら、人工授精など手もあるだろう。しかし幸恵に原因があったら、幸恵はその事に耐えられるだろうか。そう考えると、そこまで分かって子供を諦めるより、これから子どもの居ない人生を生きて行くのにお互いに責任を感じ無い方がいいと正勝には思えた。

「私には孫が居ないから、羨ましいですね」

「楽しいばかりじゃないですよ。奥さんのお迎えですか」

「ええ」

「大変ですね、どうですか腕は。写経サークル、第二期が今度あります。参加してくださいよ。老人会の皆さんも心配してました」

 老人会の皆さんと橋本は言ったが、定年するまで、町内会も幸恵が主に参加していたので、正勝は、そこを通じてこの団地の誰かとの関係は希薄だった。特定の名前も顔も浮かばない。

バス停までは十分。誰とも行き会わない。三十年ほど前はこの街もニュータウンと呼ばれ活気に溢れていた。日中街を歩いていても、子供たちの姿を当たり前のように見かけた。今は団地内を巡るコミュニティバスの乗客も年寄りばかりで、若い人を見かけることは稀だった。

バス停まで来ると、八十歳を超えていそうな、このバス停で時々見掛ける老婆がベンチの端に座っていた。いつものように軽く目礼をして正勝はもう一方の端に腰を下ろす。遅れているのか定刻なのにバスは来ない。鞄から、講座用にと届けられていた般若心経の説明書を出して読んでみる。

般若波羅密多。

これは深く真の叡智のことを指す。人間の分別に対し、無分別、すなわち仏の知恵と敢えて言う。

 仏の知恵。それはどんなものか。こうやって生かされているのも仏の計らい、知恵か。正勝も分別の付く年になった。それは良いことのように思っていたが、どうやら分別とは余り良いことではなさそうだ。無分別。分別さえ無くしたら人は仏になれる、という。しかし無分別に生きるのも、それはそれで覚悟がいるだろう。小賢しさを捨てなければならない。そういう小賢しさこそ、人の日々生きる営みの全てだと正勝は思う。

「まかはんにゃあはらみったあ」

声に出して唱えると、老婆が正勝を見た。その目が妙にしっかりとした眼光を放っている。

正勝が驚いて読経を止めると、老婆は元のように瞼を閉じ俯いた。

丘陵を開いたニュータウンには坂が多い。向こうの緩やかな坂の頂上の線に黄色いバスの屋根が浮かびあがり、ゆっくりと全体が現れ正勝たちの居るバス停で止まった。

「お先にどうぞ」

 正勝が声を掛けたが老婆はただ目を瞑りじっとベンチに座ったままだった。どうしたものかと、ドアを開けたバスの運転手を見た。

「トヨネさん、行くかな」

 三十代半ばと思える運転手は正勝に言うのでなく、その老婆に声を掛けた。

 老婆は薄く目を開けると、顔の前で鶏の脚のように骨と皺の皮膚した手をゆっくり横に振った。

「もう今日は帰ってこんよ」

運転手はニコリと笑って老婆に言う。老婆は聞こえなかったのかそのままだった。

「乗ってください、発車しますから」

言われて、正勝はバスに乗り込んだ。客は誰も居なかった。ドアが閉まり、発車しますと言う車内用録音テープが流れるとバスは動き出した。運転手のすぐ後ろの席に座ったので、バックミラーの老婆の姿がよく見えた。

「毎日ではないですが、ああやって、あのバス停で待っているんですよ」

運転手が、客が他に居ない気楽さもあって正勝に話しかけてきた。

「待っている?」

「ええ、三十年くらい昔に出て行った息子らしいですよ」

「へえ」

下り坂になり、バックミラーの老婆の姿は消えていった。

「この団地内は老人が多く、ああやって少し認知症になったらしい老人や、一人暮らしの寂しさから、コミュニティバスに一日中敬老パスで乗る人も居るんです。営業所でそういう人たちの情報を把握していて注意しているんですよ」

怪訝な顔をした正勝に運転手は弁解でもするように言った。

「旦那さんも三年前に亡くされてね、ひとりきりになられました」

「その時以来、息子さんはみえないのですか」

「息子は来なかったらしいです。寂しい葬式だったとか。本当は息子なんていないんじゃないかという噂です」

「本当はというと」

「元気だった頃、近所の奥さんたちとの井戸端会議みたいなところで、息子が居て、大きな建設会社に勤めていて、転勤が激しくて、なかなか実家に戻れないと自慢げに話してたそうです。手紙や電話はよく来るとか、孫は男の子と女の子と一人ずつ居て、とか言ってたらしいです。本当に居るのかどうか」

「そうだったんですか」

 たった今見掛けた老婆に、どこか寒々とした気配があった。

「なんか切なくて。ちょうど、今の車のワンボックスカーの宣伝みたいに、日曜日の家族のドライブ、そんなのが幸福な家族の形とでもいうような、あの頃の団地の分譲広告の写真が、営業所の倉庫の壁にまだ貼ってあるんです。男の子と女の子が一人ずつ居て、両親と、庭で楽しそうにバーベキューをやっているポスター。それがこの街での幸せなんだと言いたいんでしょうね。ローンや何やかや生活はやっぱり大変だった。それでも自分達は幸福なんだと言い聞かせる為に、トヨネさんも、そんな男の子と女の子が居る家族と言う嘘をつき続けなければならなかったんでしょうか。家を買ったのじゃない、幸福な家族を買ったと思いたかったんでしょうかね、ただ本当は子どもが居なかったみたいです」

運転手はもちろん正勝夫婦に子供が居ないことなど知ろう筈も無い。幸福な家族とは、今テレビで流れる車のコマーシャルのようなものだという運転手。正勝も、ここに住み始めた頃、老婆のように漠然と幸福な家族とは、バーベキューする分譲広告のイメージだった。だが、正勝夫婦にも子供は居なかった。そのせいか、どこか、ここの生活に馴染めなさはあった。

「嘘は相手を騙そうとするだけでもないでしょう、ひょっとしたら自分を騙すためにつく嘘もあるかもしれません」

「自分を騙すためですか。トヨネさんも悲しいですね」

 正勝に返す言葉が無かった。もし、幸恵が、正勝が知らない、例えば、この団地の知り合いが居ない陶芸教室などで、老婆のように、子供が居てなどと、ありもしない事を言っていたなら、と思うと、苦いものが正勝の胸を這った。もしそうなら幸恵は誰を騙そうとしたのだろう。

「コミュニティセンターでよかったですよね」

運転手の声に、正勝は慌てて降り口の前に行った。

 ドアが開く。正勝は車内のバックミラーの中の運転手に頭を下げ降りた。

静かさはあい変わらずだった。カラー舗装された歩道を歩き、瀟洒なアルプス地方のロッジを模したらしいコミュニティセンターの玄関の自動ドアの前に立つ。扉があくと、タンバリンを打ち鳴らす音とてんでにずれた歌声がいきなり飛び込んできた。

手を叩きましょ、タンタンタン、タンタンタン

足踏みしましょ、トントントン、トントントン

笑いましょ、ワッハッハッハッ

音楽療法というらしい。幸恵のような程度の認知症の老人たちが、歌いながら手振りを交えてやっている。

「中村さん」

 振り向くと、週二回訪問介護に来てくれるヘルパーの井上だった。

「幸恵さん、随分明るくなりましたでしょ。このセンターに通われたことよかったですね」

 井上がこんなことを言うのは、最初、在宅のままで面倒を見たいと言った正勝への皮肉もある。だが骨折で入院したこの二ヶ月は井上の紹介で、幸恵を老人ホームに預かって貰った。黙って頷くしかない。

「ええ、だいぶよくなりました」

「もう、今は認知症のことだいぶ分かって来て、その療法も進歩したんです。気持ちは分かりますが、一人じゃ無理ですよ。専門の人間が居ないと」

「この度はご迷惑を掛けました」

 正勝は井上に頭を下げた。井上は笑顔を作り、プレイルームの幸恵を呼びに行った。

 漂白されたような顔の幸恵が出てきた。

「今日はとってもお上手でした。良かったですね、幸恵さん」

 井上は幼子を抱き抱えるようにして、幸恵の髪を撫で言う。

タンタンタン、タンタンタン

幸恵は焦点の合わない目で、歌いながら手を叩いていた。

笑いましょ、ワッハッハッ

井上が歌い、続いて幸恵もワッハッハッと歌った。



舎利子。色不異空。空不異色。

団地内の桜が満開だったが、それを見ることもなく今年も花の季節は終わった。

色という字の、最後、曲げて跳ねるのが上手く書けない。跳ねが大きすぎてしまうし、曲げる所が滑らかな曲線にならなかった。随分、複雑な動きをして字は書かれるものだと正勝はつくづく思った。

それにしても色という字が妙に艶かしい。しかし説明には色とは物質的現象とある。色とは物質。物質は在るように見えて無いに等しく、在ると見るならば、それこそは無いことの証しだと。なんとなく、そうかなと正勝は思う。この現実は見かけだけで実体は無いと言い切られることに胸の痞えが取れる。苦しみも自分がそう思い感じているだけだ。解説にある、空空という言葉が胸に落ちる。空もまた空である。もうその先に諦観さえ無い。

「恵子に電話してちょうだい」

 背後から幸恵が言った。

「恵子さんは…」

 恵子は幸恵の妹で、あまり仲の良い姉妹ではなかったが、正月や盂蘭盆などに幸恵の実家で顔を合わせれば昔話に花を咲かせていた。

「ああ、しておくよ。それより、今日は井上さんが来るから」

椅子を動かそうとしたら右手首に激痛が走った。右腕の尺骨粉砕骨折で相当な重傷だと医者からは聞いていた。手術しギプスを嵌め、今は固定した肘関節を動かすためのリハビリをやっている。肘がうまく曲がるためのものだが、腕の神経が傷ついたらしく、手首や指に激痛が走って肘よりもその痛みで参っていた。

「井上さんに貸したお金を返してもらわなきゃ」

「井上さんには俺が返してもらったよ」

すぐに恵子から井上に話題が移る。

「あなたが盗んだの?恵子と同じね。恵子は泥棒よ」

 同じ話題に執着すると、後から後から憎悪が沸きあがり、収拾がつかなくなる。だから、井上に話題が移ったのは内心ほっとしたが、また恵子へ戻ってしまった。

「昨日だって、私の財布から一万円盗ったわ」

顔を歪め幸恵が言う。恵子は若い頃、姉の幸恵と金のことでいざこざがあったと幸恵からは聞いている。だから正勝と結婚後も恵子と幸恵の間には交流が暫くなかった。

それでも恵子が結婚し子供が出来た頃からまた行き来が始まった。子供の居ない幸恵が恵子にどんな思いをもって対していたのか、正勝には分からなかったが、認知症が進んでいくと、幸恵の口からは恵子への憎しみがだんだんと激しさを増して零れるようになった。

「恵子は人の金を盗んでばかりなのよ。ちっとも直っていない」

正勝は、置いた筆ペンを取り上げ、再び写経に専念することにした。なまじ相槌を打とうものなら、幸恵の際限の無い猜疑と憎悪の沼に引きずり込まれてしまう。

「早く返してもらわないと、あの子はどこかへ逃げてしまう、早く」

幸恵の声が正勝の背中にかぶさってくる。

色即是空。

正勝は叫ぶ幸恵には答えず筆を運ぶ。やはり「色」の撥ねが上手く出来ない。腕は蛇のように勝手に這う。この世においては、物質的現象、色、五蘊に実体が無い。解説文が諭し宥めるように正勝の頭の中に浮かび上がる。これは幸恵じゃない、自分に言い聞かせる。

「分かっているの?逃げられてしまったらおしまいなのよ。泥棒なんだから」

 幸恵の声が尖ってきた。また始まる。

色、空、色、空、色

何度も書き連ねる。筆先が押し潰され墨が溢れ出し黒々と紙に滲む。

「恵子は私のお金をいつも狙っていたのよ、知ってるでしょう」

今は岐阜で穏やかな老後を暮らしているはずの恵子だった。金など盗まなければならない理由など無い。

「自分だけが、子どもや孫にいい顔するために、私のお金を盗むのよ」

孫たちに囲まれて幸福な生活をしている恵子。幸恵の想像する恵子の幸福な家庭は本当にあるのだろうか。コミュニティバスの運転手じゃないが、この団地の家を分譲するための広告の家族も、ワンボックスカーを売るためのドライブするコマーシャルの幸せそうな家族も、幸恵の想像する恵子の家族も同じだ。実際に在るのかどうか分からない。それに恵子とは十年前から年賀状のやり取りさえも無くなっていた。

「早く、早く捕まえてちょうだい、自分だけが幸せならいいのよ、あの子は」

感情が昂ぶりだしていく。認知症特有の、感情に流れがない、怒り悲嘆歓喜、脈絡など無く瞬間突出する。

「恵子さんは、もう死んでるかもしれないぞ。そうなら捕まえようがないじゃないか」

恵子は幸福な家庭生活を送っているという思い込み。それは幸恵自身がそういう幸福な家庭生活を送れていなかったと感じているが故の嫉妬なのだとしたら…。冷たいものが正勝の体の中を吹き抜けた。

「お金を取り返してちょうだい」

 幸恵が叫んだ。

「お金も盗られてない、恵子なんて妹も居ない」

正勝も叫んだ。

受想行識亦復如是。

暖かな春らしい陽気の日々が続いた。窓の中の養老山地の山肌は濃い緑に染まっていた。その前を揖斐川と長良川が長閑に流れている。『輪中』と呼ばれるここが正勝の故郷だった。

木曽、長良、揖斐の三川が縺れるように流れる濃尾平野の一画だ。氾濫を繰り返し、それぞれの流れも絡みあい、その中に取り残されたような中州を、周囲を石垣で囲み、悪水を排水しながら湿地での耕作を何とかしたのが、輪中だ。橋も架からず陸の孤島と言われていたのもつい最近までだった。

写経も面白くなりかけてきた。そんなある日、デイサービスに幸恵を預け、故郷の輪中の村に正勝は戻った。役場の村長室で、正勝は義男の背中を見ながら、今朝の写経をしていた部分を頭の中で反芻する。

感覚、表象、意思作用、判断も実体が無い。私が無い。自分の感覚すらも実は無く、そこに感じるものなど無い。それ故に身体も無く、自分がしたと思っている判断は自分の判断ではない。

そもそも判断する自分など無い。それは今ここに居る自分は本当は居ない、ということか。言い訳だと分かっている。それでも、正勝は義男の後ろで立ち尽くすしかない自分に言い聞かせる。

「静かな穏やかな所だな」

 正勝は、開口一番、そう言った。やあ、も、こんにちは、でもない。目の前にある遠慮、気詰まりから目を逸らし、ちょっとだけ遠くを見るような鷹揚さを気取るしかない。これが、棄てた故郷に帰るしかない自分の精一杯の虚勢だとは分かっている。だがこう言うしかなかった。

無言のまま義男は背中を見せたままだ。小学校、中学校同級生だった義男に会って話すのは三十年ぶりくらいだった。たまに墓参りに帰り、村の道で行き遭っても軽く会釈するくらいだった。

取っている新聞の地方版に故郷のこの村のことが出ていた。村長の義男が、村の再生に意欲を燃やし、温泉施設や道の駅、老人ホームを開設しているという記事だった。

そんな義男に、昨日会ってくれないかと正勝は電話した。一拍の沈黙を置いて、いいよと言った義男に、それなりの蟠りがあるのも正勝には分かっている。

「どうにもなあ」

義男は窓の外に広がるレンコン畑を見ていたが、昼食を済ませたばかりの歯間を爪楊枝でつつきながら正勝をやっと振り返った。

「過疎という現実だ。人も減ってる。少子化もなにも、若い夫婦が居ない。子供が生まれることも無い。なんたって何も産業が無い」

 義男はまた村長室の大きな窓から外を見た。

「あの頃の半分か」

「もう少し多い。けれども、その大半が六十五歳以上なんだ」

「高齢化という奴だな」

 正勝は義男の背後の大きな窓ガラスを見た。陽射しだけが溢れている。

「そのうち年寄りだけの村になる」

 義男の言うことがあながち大袈裟とは思えなかった。今までも村外れの墓地には来たが、村の何処かに寄ることもしなかった。今日は何十年ぶりに故郷のこの海田村の中心に帰ってみると、行き交うのは老人ばかりだった。

「俺の居るニュータウンもここと同じくらい年寄りばかりだ」

「あの、ニュータウンがか。俺はここにずっと残るしかなかったが、あの頃テレビのニュースかなんかで、ニュータウンの様子を見ると羨ましかったなあ。どこかの外国みたいでな。活気もあり、これからの日本は、ああなっていくんだと思ったよ」

 正勝はここを出て、ニュータウンに住んだ頃を思い返した。ちょうど中古だが自家用車も購入し、何もかもが希望に満ちていた。

「仕事場に近かったから住んだだけだが」

「おかしなもんだな、あんなに羨ましかったのに、それがどこもかしこも、同じように高齢化という空気に包み込まれてしまっている。こうなる筈じゃなかった、村長の決裁印、特に老人関係の書類に押しているとき、いつもそんな思いが胸を突き上げるんだ」

 正勝は今日の義男への頼み事を言い出しにくくなってしまった。幸恵はこの輪中を作る揖斐川の対岸にある村の出だった。幸恵の認知症も進み、夫婦二人だけの生活、余生というより、もう早く消えていくしかないという思いを抱いての生活に疲れきっていた。

「そうか、大変だな、ここも。…ちょっと頼み事があって来たんだが」

「出来ることならやるよ。幼馴染とかそういう仲だからじゃない。老い、そうだな老い仲間だからな」

「老い仲間?」

「若い頃は思ったものだ。例えばお前に。いいよな、こんな泥沼から抜けていかれて、俺は一生、この泥の中の鯰みたいだと。嫉妬があった。俺とここを出て行った奴らとは違うんだ、と思っていた。それが結構、お前に限らずここに戻ってくるんだ皆。功成り名を遂げての凱旋とも違う。どこか屈託を呑んだみたいにして戻ってくる。口では懐かしいだのいい所だと言うが」

「ずっと戻ろうと思っていたんでもないんだが…」

「お前には故郷だろう?当たり前に帰れば良いじゃないか」

「故郷か、そうだな…」

それにしても『故郷』と、改めて省みることなど無かった。ましてや今住んでいる団地からは、車で一時間も走れば来られるような場所だったから、帰省という言葉も実感が無い。

「老いが俺たちをまた近づける」

「さっきの老い仲間はそういうことか。幼馴染とかじゃなく」

「そうだ、現実の話だ。懐かしい話じゃない。皆、老いていくしかない。老いた自分を自覚したから戻るんだろう?」

ここへ戻ろうと決心したのは、三十年も前に出て行ったという息子たちを待っていたあの老婆が死んだというのを聞いたからだった。団地の集会所で形ばかりの葬儀が市役所によって執り行われた。通夜の席には、眠そうな顔をして市の職員がいただけで、誰も来なかったらしい。

「自覚というか、俺達の葬式をどうやってしようと思って。子供も居ないしな」

誰かに見送ってもらいたい。だが、幸恵も自分も、どちらが先でも寂しい葬儀になる。老婆のようにニュータウンに置きざりにされ、帰る場所も無くし、来る筈のない息子家族や誰かを、待ち続けるしかないのが現実だ。それに正勝に待つべき子供も居ない。義男の机の上にある孫らしい女の子の写真が眩しい。

「家族が居たって、皆が家族に送って貰えるとは限らない。だから無縁仏になるくらいならと、見知らぬ同士が死ぬ時のためにだけ家族になるのだろう?友人たちが集まって、互いが看取りあったりするそうじゃないか、街では。それに街の寺では、墓の団地というマンションみたいなのがあって、金を払えば身よりも友人も居ない者は寺が葬儀や命日とかの世話をしてくれるという話だ」

「そういうのもあるらしい。この前も葬儀会社が事前相談会に来ないかと言ってきた。参加したよ。こうやって自分が送られるなら、誰かに葬式をやってもらいたいなとさえ思った。思う壺だな」

言われてみれば、ニュータウンには墓地も寺も無かった。ニュータウンの外に市の墓地公園があるのだが、そこに墓地を求めようとしても、ニュータウンの住人には毎期ごとの永代供養の分譲に僅かな数の分が割り当てられるだけで、購入しようとしても、とんでもない倍率だった。正勝も二度ほど、もう故郷のこの村に帰ることは無いと思い両親の墓を移そうと申し込んだが、駄目だった。

街を造成する時には墓地など想定されていなかったのだろう。

「いい所に目を付けた商売だな。皆、死ぬ時は一人きりだ、ニュータウンでもそうか。同じような年頃の仲間は沢山いるだろう?」

「ひとりきりだったな、俺は。誰も葬式に来てくれないだろう」

「俺だってひとりだ。ここもニュータウンも老人に変わりは無い」

「お前の葬式に出るよ、俺は。お互い最低一人の参列者がある。淋しい葬式じゃないよな」

正勝は義男に笑って見せた。義男も笑った。

一昨日、老婆の死を教えられた正勝は老婆の座っていたベンチに行った。バスが何度か通り過ぎた。

『乗らないですか』

あの運転手ではない運転手が訊いた。正勝は黙ってただ手を振った。どこへ行けばいいか分らなかった。バスが行ってしまうと、自分は本当に取り残されたと感じた。

「葬式か。自分の葬式を自分でやる訳にはいかないしなあ。野垂れ死ぬのもちょっと寂しいものがある」

「だから生まれた所が懐かしくなるのかな、勝手な言い分だが。ここでなら誰かが見送ってくれるだろうと思って」

「それが、この村に生れた者同士の、残った唯一の繋がりのことかもしれない。出て行って老いた者、昔から住んでいて老いた者同士の繋がりだ。懐かしいなんて思ってくれるとは嬉しい。嫌味じゃないぞ」

「おれは平然と出て行った。懐かしむなんておこがましい」

「それは仕方ない。懐かしさは老いていくからだ。老いていくとどこへ行きたいではなく、逝くしかない場所が生まれたところだと分かるからなんだろうな」

「そうだな、老いていくしかない。皆一緒だ。それが老い仲間だな」

「そうさ。俺の言う老い仲間というのは、どんなに生きてある姿に差があるように見えたって、どうせ老いて一人きりになるしかない人間のことだよ。誰もが仲間だろう?それで、頼みごとは何だ、俺に出来る事か」

「うん…、女房が治る見込みもない病気だし、それなら故郷のここに戻り、最後をと思ってな」

「お前の実家は、お袋さんが亡くなった二十年前に売り払ったろう」

 二十年前、その前年に逝った父の後を追うように母が身罷った。もう今の家を購入していたので、正勝は実家を売却した。

「村営住宅か空家でも紹介してもらえればと思って」

「子供は居なかったよな。奥さんと二人でか」

 奥さんと二人。義男の言葉に返事が詰まる。ここに戻るには空家も必要だが幸恵の介護にまつわることも、いやそれこそが最も大事な要件だった。

「女房が認知症なんだ」

 正勝は義男を見ず、義男の背後の窓ガラスの中に広がる輪中の水田風景や養老山地に目をやった。

「大変なのか」

暫くの沈黙のあと、義男が訊いた。

「最近、徘徊も出てきて」

「じゃあ、一時も目を離せないな」

 幸恵はすでに在宅での介護は困難だと医者にも言われていた。それは幸恵の認知症の進度もあるが介護者が正勝という高齢者であることも理由の一つだった。入院なり施設なりに入れることを拒むのは正勝のわがままのように取られている節があった。

「ああなってしまうと、俺の力じゃどうにもならないんだ。病気の前の女房は俺がちょっと突いただけでも倒れそうだったのに」

徘徊を予防するため、ベッドに括りつけることが多くなった。井上が来るときはさすがに解いているが、それもどうやらばれてしまっているらしい。

「爺さんが逝くときだった。体が震えるので親父やお袋、兄貴たちと抑えるのだが、ものすごい力でな、大したもんなんだ、こんな小さく萎れてしまったような年寄りの体のどこにそんな力があるんだろうって。生きるという執念かな、いや死ぬことへのとてつもない恐怖だったとこの年になると思う」

 幸恵の力も大変なものだった。どうしても、恵子の家に行くのだと、玄関で靴を履いている幸恵に気づき、慌てて後ろから抱きかかえたのだが、幼子を放り出すように弾き飛ばされた。

「介護サービスを受けられないと、とても俺一人じゃやっていけない」

 憐れみを請うような口ぶりだと、正勝は自分の言いように思った。

「多いんだ、最近。名古屋じゃ老人施設に入るにも順番待ちだってな。だからこの村の施設に入るために転居してくる。酷いのになると、子供は名古屋で普通に生活してるのに、親たちだけを、ここのアパートに転居させて、介護サービスを受けようとする。姥捨て山だな、ここは。いいよ、村営住宅の空きがある。手配しておく。もう決めているんだろう?戻ってくること」

デイサービス、訪問介護、色んな制度、ニュータウンの方が幸恵にも介護する正勝にも都合がいいのは分かっている。それでも、もう限界だった。どうやって死ぬか。それはどこで死ぬかでもあった。その場所さえ分かれば、逝くまでを、ただ静かな残された日々を生きればいい。

「ああ、決めた。図々しいが故郷だからと言わせてくれ。世話になる」

「何、いいさ。故郷か。そんなに懐かしいものかね、俺にはただの泥まみれの土地だが」

 義男は、自嘲に唇を歪めた。正勝は何も言えなかった。帰郷とは聞こえがいいが、夫婦揃ってここに死にに来ようというのだ。義男達には迷惑な話だろう。


是諸法空相。不生不滅。

 梅雨の盛りを迎えていた。身体の不調子も老いに加えて、幸恵にも正勝にもあった。それでも右腕は大分回復し、左腕ではなく右腕でも写経を始めた。

不、という字は書きやすかった。線を引くだけでよく、曲げたり撥ねたりしないで済む。説明書を読むと、この世においては存在物はすべて実体の無いことを特質とする。生じたとも言えず、滅したとも言えず、とあった。空とは何か、正勝には理解できなかったが、ない、そしてないこともない、という否定が連続だ。何となく言いたいことは分かる気がした。何もない、絶対的に。そういうことだろう。

昨日の幸恵の検診では、『進んでもいませんし、回復しているともいえません』と主治医の市野先生が言った。悪化も回復もない、今のまま。そもそも病など生じも滅しもしない。今ある幸恵はまさに幸恵で、昔の幸恵、これからの幸恵、そして今の幸恵も実は居ない。淡々と言う市野先生に正勝は昨日写経していて心に残った一節を思った。

そんなある日、幸恵の陶芸教室の友人、原という人物が正勝を訪ねて来た。

「私もちょっと事情がありまして、陶芸教室を三年ほど休んでいたんです。先日久しぶりに顔を出したら、中村さんも病気とかで」

三年前といえば、幸恵の認知症が明らかに他人にも分かるという段階に入った頃だった。陶芸教室に限らず、出かければ、家にひとりで帰ることが困難になった。どこそこの駅、交番などから連絡があり、その度に正勝が迎えに行った。このままではいけないと思い、陶芸教室を退会させたのだった。

「一番仲が良かったのです。中村さんと私は高校が同じだったんです。学年も同じでした」

原は、その歳にしては若作りだった。着ているもの、髪型、装飾品など。

「今、体調を崩していて、病院に行っているんですが」

幸恵が認知症であることを原は知っているのだろうか。正勝はその辺りの事情を分からなかった。症状が進み、そういう陶芸教室などに行かなくなって丁度三年、原も陶芸教室を止めて三年だと言っていた。

「あの、…。認知症だと伺いましたが」

知っていたのか、と正勝は安堵を覚えた。

「ええ、割と若年なので進行も早くて」

「そうですってね、ご主人も大変でしょう」

 大変でしょうね、という原の言葉に思わず込み上げるものがあった。今までならそんなありきたりの慰めに胸が詰まることなど無かったが、このときばかりは違った。幸恵の世話に正勝が自分でも自覚しなかったほどの心身の疲労が重なっていたのだろう。

「なんとか、介護ヘルパーやら役所のデイサービスなんか使って凌いでます」

「分かります。所詮はお役所仕事、機械的で家族の心の辛さなんて分からないですからね」

もっともだと思った。昨日もコミュニティセンターに迎えに行き、ロビーで待っているときだった。スタッフルームの中から井上の同僚と話す声が聞こえてきた。

「困るのは自分なのにね。まだ施設に入れようとしていないのよ」

「旦那さんて、もと市役所なんでしょう。そういう人って面子とかに拘るのよね。ましてや施設は市からの補助金やら天下りの人も居るから」

「障害の受容。認知症を受容できないのね。これからの高齢化の大きなテーマよね。本人にはもちろんその自覚は無理だけれど家族に受容するだけの覚悟がないとこういうことは解決できないわ」

「そうね、井上さんは大学の先生の彼とその研究をしてるんでしょ」

井上の同僚らしき女の潜めた笑い声がした。

「何言ってるの。気になる人だけど、スキーに行ったり、ご飯食べるだけよ」

井上の取り澄ました声がした。

「いやだー、熱愛発覚した芸能人のカップルみたいな釈明ね」

粘つく声に井上は反論せず含み笑いが漏れた。

受容。諦めるか、赦すか。認知症の幸恵はそうやって受け入れなければいけないのか。幸恵は幸恵自身だ、赦し、受容するのではない。そのままを世界に差し出せばいい。それが出来ない。世間体や自分の愚かで脆弱さで。幸恵も俺も今生きて苦しんでいる。井上の含み笑いにやり場のない怒りが湧いた。

「それでも役所だけが頼りですからね、この病気は」

 原の言葉は同情ではない。それでも頷くしかない。無力感が深かった。

「ところで、今日は幸恵さんに良かれと思ってこういう物をお持ちしたんですよ」

 やおらに原は持っていた鞄の中からビニール袋を取り出した。

「中国の寺で御祈祷を受けた水晶で作った数珠なんです」

 濃い緑色した、直径五ミリほどの水晶らしい玉の数珠を見せた。

「信じる信じないは勝手ですが、これを、奥さんとご主人が嵌めていればどんな時でも離れ離れになることはありません。もっと言えば、徘徊で出て行ってしまった奥さんとも何とか逸れずに済むのです。導く力があるんですよ」

 こういうことか、と正勝は腹の中で嗤った。しかしあまりに小馬鹿にされたと思った。そんなことが高々数珠で出来る訳が無いではないか。正勝はいかにも作り笑顔の原の顔をじっと見つめた。

「うちはあまり神仏を信じたことがないんだ」

「神様ではありません。目に見えない偉大な力ですよ」

 原はまったく動じた気配など無かった。自信というか、確信めいた口調で、説明する。腹立たしささえ覚えた。

「もしそういう話なら結構ですから、お引取り願いたい」

「あら、幸恵、病院じゃなかったのね」

 原の視線が正勝を通り越して正勝の背後に向けられた。そこには幸恵が立っていた。

「こんにちは」

 幸恵が無表情のまま挨拶をした。

「何よ、水臭い挨拶じゃない」

 原は立ち上がって幸恵のところに行くと幸恵を両手で抱きかかえた。幸恵はそれでもただ突っ立っているだけだった。

「ごめんね、もっと早く来られればよかったんだけれど」

原は幸恵の髪を右手で撫でながら、左手で盛んに背中を摩った。

幸恵の顔にわずかに喜びの表情が浮かんだ。

「あら、思い出してくれたの、嬉しい、仲の良かった紀子よ」

原は今度は両手を幸恵の背中に回して握り、幸恵の肩に自分の顎を乗せて、幸恵の耳元に息を吹きかけるように言った。

「大丈夫、私が幸恵を治してあげる。旦那さん、元に戻ります」

 幸恵の表情が動き出した。いつもはその表情が怒りや悲しみに流れはしないかと、じっと窺う場面だ。

「昨日も行ったのに、紀子は居なかったじゃない」

「ちゃんと私の名前、覚えていたんだ。そうよ、私、紀子は昨日忙しくて」

満面の笑みで振り返ると原は正勝に向かって言う。

「私、原紀子というんです。奥さんは私のこと覚えていてくれたんです。そりゃあ、高校のときからの友人ですもの」

正勝の中に、どこか釈然としないものが残ったままだったが、最近は大抵は怒りや哀訴に転じる幸恵の感情が今日は穏やかになっていることの安堵もあり、原への疑念も、ひょっとしたらという思いと半ばした。

「高校はどちらですか」

正勝は、幸恵の出身校を知っていたが、最後の判断材料にするために、訊いてみた。

「岐阜県立海田高校です」

間違いなかった。

「紀子、ちっとも連絡くれなかったじゃない。どんなに、私、会いたかったか」

「ごめん、ごめん。忙しくて。丁度良かった。今ね、皆さんの幸福を願って、こういうものをお届けしてるのよ」

原は正勝に差し出した緑色した数珠を幸恵の手首に嵌めた。幸恵は不思議なものでも見るように、手首を顔の前に翳し、じっと数珠を見ていた。

「きれいだね…」

幸恵が呟く。原が振り返って正勝を見た。

「今日はこれで帰ります。信じて頂けたら、数珠代だけでも寄進してくださいね」

「分りました」

正勝は頷くしかなかった。それにしても本当か。原は幸恵と同じ高校で同じ時を過ごしたのだろうか。だが幸恵の中ではそうなっている。是諸法空相。実体が在るものなどない。ふと、この一節に、小さな懐疑が正勝の中に漣立った。



無眼耳鼻舌身意。無色聲香味觸法。

梅雨が終わりに差し掛かったようだ。降り出した雨は間断ない。ただでさえ静かな団地内だったが、遮音幕を被せられたかのように、低く一定の強さで降り続く雨音に閉ざされていた。

写経は毎日続けている。写経もやってみると、現実がその時ばかりは遠のき、僅かな時間、日々の屈託から逃れた。それに、講師が書いたらしい説明文はなかなか砕けてよく分かった。

眼も耳も舌も声も色も匂いも実は無い。妙に気分が軽くなる。老いた身体、壊れた身体。自分も幸恵も実体の無い、そんな自身の身体を背負っている。あると勘違いしている。それでもこの身体の苦痛からは逃れられない。幸恵の身体に刻印された認知症と言う苦痛、実際の骨折や幸恵の介護で感じる正勝の身体苦痛。無いと思えばその苦痛は無い。しかし身体の苦痛はいかにも現実だった。どうしても愚痴も不満も零れる。苦痛は生きてあればこそだと言うが、それで苦痛が和らぐことは無かった。だがこの痛みも無い、という。

今日も、洗濯、買い物、銀行へ行って年金を下ろすなど、やらねばならない最低限のことをこなしただけで疲れきった。幸恵は大方、ベッドの中で過ごしていた。身体の不調もあったのだろう。だが、身体だけでなく、認知症と言う病に幸恵も疲れきっているようだ。寝息は今日は緩やかで一定だ。多くの場合幸恵の寝息は呼吸停止したように途切れたり、急に大きく早くなったりする。どうやら夢を見ているようだった。その夢はこの世の実相と同じく在るものではない。

「今日の夢はいい夢か」

 写経が、幸恵に邪魔されること無く書き進んで、正勝の頭の中心が鈍くじんと熱くなっていた。

 正勝は筆を置き、そのまま座椅子の背もたれに身体を預けた。今日は幸恵の身体を拭いてやった。ベッドの中とは言え、体位変換など老いた身体には辛い作業だった。腰の辺りが重い。背中の筋肉も強張っている。首筋が鉄板を入れたように硬く張っている。

 天井を見上げると、天井板の木目が人の顔に見える。その中の一人がじっと正勝を見下ろしていた。

「誰だったかな」

 思わず問いかける。最近は幸恵以外の誰かと言葉を交わすことなど稀だった。それも、一方的に喋る幸恵に、頷くだけというものだ。幸恵の話は、辻褄が合おうが合うまいが、幸恵に合わせていかねばならない。本当かどうか、そんなことなど詮索してもしかたなかった。虚実は紙縒りのように撚りあって二人の間に在る。

「私ですよ」

見上げている正勝の重い頭の中から声がした。どこかで聞き覚えがある声だった。

「忘れてしまったのね」

優しい声だ。

「幸恵か」

「そうですよ。もう二十年も前の私です」

 そうだった、幸恵とはこんな風に、就寝前の一時、お茶を淹れて、何気ない会話を交わすのが認知症になるまえの僅かな日々の愉しみだった。それに二十年前といえば、正勝は四十半ばになり、役所の仕事も忙しさを増していた。殆どの時間を役所で過ごすような有様だった。幸恵も陶芸教室にも面白みを覚え、若い頃とは違う溌溂さに溢れていた。

「あなた疲れていませんか」

 不意に、耳の後ろからまた幸恵の声がした。胸が熱くなった。

「ああ、年だな、身体がうまく動かない」

「そうですね。あの頃のあなたと比べたら、随分身体を動かすのを億劫がるようになりました」

 介護する身になってくれよと、愚痴っぽい気持ちになるが、考えれば、幸恵は認知症になった自分を本当の自分と思っていないかもしれないと正勝は思う。それは本当の私じゃない。そう言いたいのだろうか。本当の私とは何だ。

「うん、分かっている。億劫なんじゃない。俺もお前と同じ、老いたんだ。認知症も老いも一緒だ」

ふっと笑みが正勝の頬に浮かんだ。そうだな、俺たちは同じなんだ。

「ねえ、あなた」

天井板は甘い声で言う。それは寝床に入って、背を向けていた正勝の背後から掛けた時の声に似ている。幸恵の要求は慎ましやかだった。面白みと言うか、可愛げのなさみたいなものを正勝は感じていた。幾度か同僚に誘われ、そういう場所に行ったこともある。その可愛げが商品であることも承知だったが、いや承知だからこそ、正勝自身も欲望を剥き出しに出来た。剥き出しにしたことに満足があったのかと言えばそうでもなかった。やはりどこか、満たされなさは残った。

「どうした。そういえば、お前の焼いた茶碗だ」

卓袱台の上には幸恵が焼いた湯のみ茶碗がある。

「陶芸は面白かったですよ。いえ合唱も。女の人ばかりだった。皆、家事やらそれこそ、家族のことも一時忘れる為に来ていた。だから、子どもも居ない、そういう私も仲間になれました」

あの頃の陶芸教室とかグループ旅行に溌剌としていた幸恵は見ていて可愛いと思えた。もう子供がとか将来はという怯えが無くなり、今を存分に楽しんでいるのが良く分かった。

たまに休みが続くと、二人してよく小さな旅にも出た。

鄙びた温泉や季節を外した海辺の町など。幸恵は心から寛いでいた。

「あなたが定年退職したら、こういう静かな所で暮らしましょう。あの街は老人には辛いは」

あの街とはこのニュータウンだ。あの頃、役所への通勤の便の良さを感じていて、正勝はこの街が辛いなどと思ったことなど無かった。幸恵は、あの頃既に佳境に入っていた人口減少による、街の寒々とした気配を感じ取っていたのだろう。次から次へと当時の情景や幸恵の顔が浮かんでくる。

正勝は台所から缶ビールを持ってきて飲んだ。二口もすると、冷たさに震えた喉がジンと熱くなる。その熱が首から上の血流を良くした。頭の芯が熱くなる。

「もうお休みなさい、あなたは本当に良くやってくれた」

 天井の幸恵が囁いた。

「ああ、ありがとう。俺よりもお前のほうが休めばいい。病気は本人が一番大変だからな」

「そうですね、なりたくてなった訳じゃない。老いということです。誰もが持っている病よ」

幸恵の静かな口調だった。雨の音が耳の底で打つ脈の音に重なって続く。

ふっと見ると、赤、黒、紫色が無彩色な部屋の中で殊更に浮かび上がる。最近雨の日が続いて失禁の多くなった幸恵の下着が足りなくなり、今日は納戸から幸恵が以前身につけていた下着を取り出し洗濯機を回した。外に干す訳にも行かず、部屋に干してある。それがこの色彩の下着だった。

赤、黒、紫。そういえば、自分たちの生活の場面から、こういう強い色の品が消えていったのは何時の頃からだろう、と正勝は思う。茶色や灰色、それも淡い濃度のものが多い。あの頃は、例えば下着とはいえ、まだこうやって目に強く残る色だったのか。それにしても幸恵は何故こんな色の下着を大事にとって置いたのだろう。正勝に幸恵のもう一つの顔が浮かんでくる。

「今日ね、いいこと聞いちゃった」

そういう時はこの鼻に抜ける声で分かった。あの時、今日あった出来事を報告したいのが目的のように幸恵は正勝の布団に入ってきた。

「五十代の、一人暮らしの女性なのよ、老後は友達と一緒に暮らし、自分たちで共同のお墓を建てて、そこに入るんだって」

 そんな話題ながらも、寄せた身体からは湿り気を帯びた熱が伝わった。

「どう思う」

 幸恵の手が正勝の股間に伸びる。正勝の手も自然に幸恵のパジャマに掛かり、上を剥いだ。小ぶりの乳房は丁度正勝の掌の中に納まる。唇で幸恵の首筋を這う。パジャマの下を脱がすと、真っ赤な下着だった。目に突き刺さるような色だった。脳髄に痺れが走る。

「あの時のだったかな」

正勝は居間の鴨居に吊るした洗濯物を干すリングにぶら下がる今日洗ったばかりの下着を見た。下腹の奥にちくりと線香の火で焼いたような熱い痛みが点る。それが下半身全体に一気に熱を帯びさせる。正勝は目を瞑る。瞼の裏側には、今、ジンと点っている下腹部の線香の火のように、赤い下着の色が滲んだ。

 あの時、性器に触れると幸恵の口から即座に声が漏れた。火照った皮膚に舌を這わす。幸恵の両手が激しく正勝の背中を摩る。汗ばんで粘りを帯びた手の皮膚が正勝の皮膚に吸い付いてくるようだった。

「おい」

 正勝は呼ぶ。答える者は居ない。がらんとした部屋の空気はどこまでも広がっているように思えた。

 座椅子の背もたれに預けた身体は、重く体液が澱んでいく。しんしんと静寂が降り募る。正勝は湿った静寂に沈んだ。

「ひとりきりでお墓なんて…、寂しい話よね」

 あの時、幸恵は行為の最中、そう言った。墓にはひとりきりで入るしかないだろう。あの時、正勝はそう思った。ひとりきり。体を重ねても、幸恵の胸のうちにあった寂しさは消えていかなかった。済まなかった、正勝は天井板の顔に呟いた。

「誰だって死ぬ一瞬はひとりきり、寂しいもんなんですよ」

 宥め、労わるような声だった。

やがて目蓋の裏に、幸恵の裸体が浮かぶ。それはいつの頃の身体なのか分からない。ただ、乳房は弛んでもいない、肌は艶があるわけでもない。まるで、写真の裸体のようだった。幸恵そのものの、生身の身体でなかった。しかし、正勝の性器は熱を帯び硬くなる。なんと久しぶりのことだろう。うろたえた。それはここ何年も不能であったからのうろたえでなく、まだ勃起する自分の性器のなんとも自分のものでない違和感、それが自分の身体に在るといううろたえだった。これは俺なのか。全てに実体など無いはずだ。だが性器は確かに膨らんでいる。

 薄く開けた正勝の目に飛び込んできたのは、天井板の誰かの顔のように見える染みだった。それは幸恵ではなく、老いて不機嫌な、毎朝歯を磨くときに鏡の中に見る自分だった。

「お前は寂しくないか」

正勝は天井板に浮かぶ自分に言った。天井板の自分は微かに微笑んだようだった。

「そうか、そうだろう。お前もよくやっている」

正勝は硬くなった自分の性器を握った。鳩尾辺りが熱くなった鉛球が突き上げて塞いだように苦しくなる。自然と手が動く。自分の身体でない違和感。不意に肛門が引き攣る。痒みがペニスの裏側を走り、精液が滲み出た。喉を擦る呼吸に乱れは無い。静かな興奮が去る。大きく深呼吸する。熱く膨らんだ部屋の空気が一気に冷めていった。

正勝は鴨居にぶら下がる、幸恵の赤い下着を見た。本当にこの下着を幸恵は身に着けていたのだろうか。本当にあの頃もこの舌や唇や皮膚は感じていたのだろうか、幸恵を。あれは幸恵だったのか。一瞬の快感に虚脱したこの身体は本当に俺の身体だろうか。淀んでくる疲れに正勝の瞼が重くなっていった。

   無無明。亦無無明尽。
 

 梅雨が明けると一気にこの地方特有の蒸し暑い日が続く。

 右腕での筆の運びは順調だった。これで十一枚目の写経になる。無明。深い迷いのこと、老いの先行きは分かっている。この苦しみも何十年も続きはしない。いつか終わる。幸恵も俺も楽になれる。それでもこの介護生活が、永遠に続く闇のように正勝には感じる。

八月の最初の日曜日に引越した。出来る限りの家具は捨て、最低限のものに限ったら、四トントラック一杯で終わった。

 本当にバスの運転手が言っていた、分譲の広告のままの街だ。正勝は遠ざかっていく団地をトラックのバックミラー中に見ながら思った。三十五年前、もう少し明るく色彩のあったように思ったが、それはこれからという人生の上り坂にあった自分の記憶の中の街の姿だ。最初にここに運送会社のトラックに乗せてもらいやってきたときのことが鮮明に思い浮かんでくる。数件の同じような引越しのトラックの姿があり、行き交う人々の多さが、活気を見せていた。今日のこの箱庭のような、いや玩具のように人の匂いが立ち込めてこない街の風情はどうだろう。廃墟。時の流れから外れ、朽ち果てるのを待つ静けさだった。

「あのあたりは、橋も何本も架かり便利になりました。輪中はもう陸の孤島じゃないですよ」

引越し会社の運転手が言う。あと二人、後部の座席にいる。幸恵はタクシーで井上が付き添って後日送ってくれることになっている。引越しの整理がつくまでは老人保険施設に一時預かりだ。

正勝は義男に挨拶に行った。相変わらず苦虫を噛み潰したような顔だった。

「今日から世話になるよ、いろいろ迷惑を掛けた」

 正勝は持ってきた菓子折りを差し出すと、そのまま帰ろうと思った。なんだ、自分の都合が通ればそれだけでいいのか。挨拶もそこそこにか。どう思われても仕方ないと思った。本当に自分の都合だけで、義男に縋った。下手な愛想より、そうやって思われたほうがいい。そう思った。

「そういえば。忠雄を知っているだろう?」

義男が突然言った。

「船頭平閘門の」

 忠雄は長良川と木曽川が合流するように作られたところの、水位を調節するための閘門の管理人の息子だった。家では養鶏もやっていた。正勝よりも三歳年下になる。

「あいつも、自動車会社の工場の職長で定年退職して、三年ばかり嘱託で残ったんだが、理由は知らんが、ここの外れの赤沼に家を建てて一人で暮らしている」

「赤沼か」

「ああ、俺も村長になってから随分、名古屋のベッドタウンにするために輪中特有の湿地帯の沼を埋め立てて開発したが、赤沼の周辺だけはどうにもな。だから、あの辺りは、当時のままだよ」

 赤沼。輪中の中にあるたくさんの沼の中でも、特に広い沼だった。多くはレンコン栽培に用いられていたが、赤沼は泥も深く、人が入れずにそのままだった。

「そこに何故家なんか建てたんだ。忠雄は腰沢の出だろう」

「うん、建築許可も取ってない。だいたいいつ建て始めたかも分からなかった。赤沼のほとりにあった阿弥陀堂にいつも寄り合ってた俺のお袋たちが、帰りがだんだん遅くなったり、やたら、お供物の野菜や米やお神酒なんかを多く持ち出したので、あるとき、不意に阿弥陀堂へ行ったら、忠雄が居て、その横に割りときれいな小屋を建てていたんだ」

 赤沼の周辺は小高い丘になっていて、樹木も鬱蒼と生い茂っていた。阿弥陀堂とか、今は廃止になったが、正勝が小学校を卒える頃までは、村の火葬場があった。そういうこの世とあの世の境界のような雰囲気が赤沼の辺りには濃く漂っていた。

「忠雄は、三つ下だった。おとなしく、目立たない奴だったがな」

「そういうやつが、突然おかしくなるんだろうな。当たり前の人生を送って、当たり前の老後を暮らせたんだろうが。まあ、人生の働き盛りでおかしくなったんじゃないのが救いだが。除霊所という看板を掛けている」

「除霊所?何をするところだ」

「よくは知らん、親父たちなら分かるんだろうがな。お前は忠雄と仲が良かったろう」

「それほどじゃない。家が隣で、父親は閘門の管理人やりながら養鶏場をやっていたので、よく卵を買いに行かされて、それで時々遊ぶようになった」

 忠雄の家は、養鶏場をやっていた。鶏糞の匂いに辟易とすることが多かったが、正勝の両親はそのことで忠雄の親に文句を言ったことなど無かった。

「そうか、今、奴も帰ってきている。仲良くとは言わないが、それぞれ、いろんなことがあってここに戻って来たんだ。何かと気脈も通じることがあるだろう、一度訪ねてみるのもいいかもしれないな。奥さんの介護だけじゃ息も詰まる。奴の所には村の年寄りがよく集まる」

「除霊ということでか」

「奴の親父さんもそんなようなことをやっていた。あの頃も村の年寄りは集まってたよ、阿弥陀堂で忠雄の親が何かやる時は」

 そんな記憶は正勝にもあった。祖母がいそいそと出かけて行った。

「俺は余り興味が無いんだ、宗教に」

「ニュータウンの住民だな、宗教に興味が無い、か。ここじゃあ、そういうものも引き受けないとやって行かれん。それに忠雄のは宗教じゃない。まあ、良ければどうだと言ってるだけだ。行けということじゃない」

ニュータウンの住民。そこの所で義男の唇が皮肉っぽく歪んだのを正勝は見逃さなかった。そうだな、ニュータウンなどという言葉に踊っていた、自分は。あそこでの生活が、この古い村には無い、新しい生き方なんだと信じていた。どこで死ぬかと、今になって問えば、ニュータウンという名は出てこない。ここで死ぬには、義男が言うように、忠雄のことなども引き受けないといけないかもしれない。

義男の所からの帰り、正勝は実家の在った腰沢に車を走らせた。

橋を渡ればそこはもう養老山地の麓だ。この輪中の外れになる。正勝の実家もここにあった。

今までの墓参に帰ってきたときとは違う懐かしさがある。それはここが、やはり義男が言う、もう逝くべきところだと分かったからだろうか。

農道は昔のままの広さだった。両側には沼地の作物ではない里芋や長葱などの他の野菜の畑が続く。乾いた土がこの一帯だけは広がる。暫く行くと水神様の小さな祠が見える。その角が正勝の生まれた家が在ったところだ。今は更地になり、売り地の看板が立っていた。二十年も前に売り出したのに、未だ買い手が付かない。正勝は車を下り、その更地の中に足を進めた。真ん中の看板の傍らに立ち、周囲を見渡す。すぐ前に養老山地の山肌、送電線の鉄塔が手を繋ぐようにしてその山肌を走っている。東の方に目をやれば、濃尾平野の平たい土地が続き、名古屋駅のタワービルが見えた。あの頃には無かった。正勝は目を瞑った。川の匂いと沼地の泥の匂いが鼻腔をくすぐる。

 遠い日が浮かぶ。鶏の首を締め上げたような鳴き声が耳に纏わりついた。桜も終わりかけていた。輪中に降った雨や汚水を集めて排水する水路の水面に、その桃色した花弁が何層にも重なって散り浮かんでいた。熟れていく木々の樹液の饐えた匂いが輪中の中に充満していた。正勝は隣の忠雄の家に様子を見に行った。

『こんにちは』

二度ばかり玄関で呼んでみたが、返事は無かった。裏の養鶏場にでも居るのだろうと、脇の木戸を開け、奥に向かった。

一番右手の鶏舎で鶏の鶏冠を突きたてるような鳴き声がしていた。その入り口で何度も呼んでみたが、やはり返事は無い。ガラスをこするような鶏の鳴き声で聞こえないのだろうと思い、正勝は鶏舎の中に入った。

露地飼いなので足元は雪が積もったように鶏が群れて真っ白だった。鶏舎の中に植わっている桑の木の枝に飛び上がったり、飛び降りたり数羽の鶏が狂ったように羽ばたき逃げ惑っている。鳴き声が鶏舎内に反響する。忠雄が背中を向け、その桑の木の傍で何かを捕まえようとしていた。

『忠雄』

 呼びかけたが、鳴き声がうるさく、聞こえないようだった。そのうち、忠雄が桑の木の枝の何かを捕まえた。黒いロープかと思ったが、一メートルくらいの蛇、青大将だった。忠雄は尻尾を掴んだ。蛇は鎌首を擡げ、忠雄の腕に体を絡ませた。

『チクショウ』

細く尖った、腹の底から搾り出したような忠雄の声だった。

『どんだけ言やあ分かるんだ、このくそガキは』

大声で叫ぶと、忠雄は腕を大きく振った。蛇が絡んだ腕から離れ、円を描いて地面に叩きつけられた。一撃で頭がひしゃげ、蛇は長々と地面に伸びた。口からどろりとした黄色い液体が出た。飲み込んだ卵の黄身だ。

『このくそガキが、このくそガキが』

忠雄は狂ったように、もう死んでいるだろう蛇を地面に叩きつけた。蛇の頭が割れ血が吹いた。鶏は鳴き声を上げ、右に左に逃げ回る。鶏糞の匂いに鳩尾が酸っぱくなり嘔吐しかかった。正勝は、走って家に戻った。

『くそガキ』

思い出せば、忠雄の父親が忠雄を叱り付けていた時に、いつもそう言っていた。それは忠雄に限らず、忠雄の母親を叱るときにも、罵倒だった。忠雄の鶏の鳴き叫びのような声が、今も正勝の耳の底に沈んでいる。

正勝は目を開けた。陽射しは柔らかに降り注いでいる。忠雄の家も正勝の家も跡形無く、更地は少ない雑草が生え、ここにかつて家が建ち、人や生き物が居た気配すら無かった。忠雄の母親が忽然と姿を消したのは、ちょうど忠雄が小学生になったときだった。もう五十年も前のことだった。

 遠くに伊吹山が聳えている。あの頃もこうやって毎日伊吹を見ていたのだろうか。正勝は当時を思い出そうとしたが、はっきりと伊吹の姿は浮かばなかった。懐かしいなどという気持ちはどこかに飛んでいる。懐かしさの裏にある、暗い記憶も甦る。お前はここが本当に帰りたい場所なのか。忠雄の声がした。

帰ってきて二週間ほどが過ぎた。借りたのは村営住宅ではない。赤沼の近所、そこの家を借りた。数年前まで老夫婦で住んでいたが、今は夫婦して名古屋の介護付きマンションに入っている。資産家だったらしく、家はなかなか立派なものだった。

「今日は善光寺に行こうか」

 正勝は、リビングの窓際で、赤沼を渡ってくる風に気持ちよさそうに吹かれている幸恵に言った。村内報で、善光寺の写真と案内が載っていたのを思い出したからだ。

「ええ、行きましょう。昔よく行った、あなたと」

「誰と…、そうかよく行ったな」

「ええ、あなたも私も暗闇めぐりが大好きだった」

 正勝は幸恵とこの近所にある善光寺に行ったことはなかったし、一人でもなかった。幸恵は小さい頃親に連れられてよく来たと、まだ元気な頃話していた。それと、こちらに来てから幸恵も落ち着いていることが多くなっていた。外へ連れ出してやるのもいいと思った。

 車で二十分も走ると、長野や他の地にある善光寺の流れを汲むらしい祖父江善光寺に着いた。参詣の人は、老人が三人だった。幸恵は懐かしそうに、鐘突き堂やおびんずる様の像を見回しながら、境内を歩いた。

「仏様が笑っている」

 本堂で本尊の前に座り、合掌すると幸恵が言った。金箔の剥落した背丈の一メートルほどの阿弥陀様に、薄暗い堂内の微かな明かりが表情を刻んでいる。幸恵が言うように笑っているようにも見える。だが、正勝には怒りに歪んだようにも見えた。線香の匂いが幸恵が頭を揺らすたびに髪の間から立ち上る。正勝の鼻腔の奥につんとしたその匂いが刺さった。

「暗闇めぐり」

 幸恵が呟く。戒壇巡りのことだ。

「ひとり三百円です」

金を払い幸恵の手を引いて本堂の下に巡らした戒壇に下りる。深い、濃い闇だった。目の前に翳した自分の手さえ見えない。だが幸恵は正勝の手をほどくと恐れることなく闇の中を行く。正勝は幸恵が転ばないかと、おそるおそる追う。回廊は何度か曲がった。その度に正勝は足が止まった。無明。これが無明か。なまじ意思らしきものがあるとこの闇の中で迷い怯え進めない。幸恵はさも楽しそうに、この無明の闇をずんずん歩いて行く。

「お釈迦様」

幸恵の声が闇の奥からした。壁を伝って歩いていくと、直角に曲がり、突然、まるっきり玩具の世界が出現した。安っぽい作りの極楽の情景だ。プラスチック製で寺や家がある。池にはこれもセロハンの蓮の花も咲いている。その真ん中に阿弥陀様がいた。五色のライトが照らしている。

「お浄土だわ」

 幸恵が呟いた。


   乃至無老死。亦無老死尽。

 老いること、死ぬこともなく、老いること、死ぬことの滅尽もない。正勝も死が現実味を帯びる年ごろになった。お盆は死が親しく感じるようになってきた。

盂蘭盆が過ぎ、家々に帰省した人たちのいっときの賑わいも去った。村はいつもの静けさを取り戻した。写経も朝の涼しいころ、幸恵がまだ深い眠りにあるころにやっている。老と死という文字が妙に生々しく正勝に迫る。

 老いていくこと、それはやがて死に繋がる。いや老いと死は、正勝にとってはもはや同じだった。幸恵は生きているといえるのだろうか。認知症になって歳を取らなくなったとさえ思える。

 日々はゆるやかに過ぎていった。

幸恵には義男が手配をしてくれて介護ヘルパーもやってきてくれた。幸恵とそんなに年が変わらないようだった。三木さんといった。

「今は居ない祖母が認知症でしたから」

 三木さんは、正勝が、こういう介護とか認知症について興味があるのですかと訊くとそう答えた。

「この隣の村でした」

「高輪」

「そうです」

「水屋とか、まだ古い輪中の姿が色濃く残っていますね。先日車で巡って懐かしかったです」

「あれでも私の若い頃から比べると随分変わってしまって。今年も何とか川送りが出来るみたいで」

「ああ、懐かしい。川送りは高輪輪中だけのものでした」

川送りは、何故だか高輪地方特有の慣習で、世間で言う盂蘭盆のような行事が立秋を過ぎた頃に行われる。今年は八月の末だった。残暑が厳しかったがそれでも朝夕は秋の気配が匂った。

「今日も帰って明日からの川送りのお迎えの準備をしなければ。ご先祖様が、川を遡って帰ってこられるんですよ。不思議なものですね、そんな子供だましみたいな言い伝えなんてって、頭じゃ思うんですが、川送りの日、最後の日、葦で編んだ舟にご先祖様を迎えるために飾った金箔銀箔の軒飾りや紙位牌を乗せて川に流すとき、自分もいつかこのご先祖様の帰っていかれるところへ帰るんだなって、つくづく思います。もうすぐですけれどね、もうおばあちゃんですから」

 三木さんは幸恵の紙オムツを替えながら言う。強烈な臭気だった。正勝もやるが、三木さんのように、こんなににこやかにと言うか、当たり前な顔をしてはやれなかった。

「ああ、気持ちいいでしょう。さっぱりした」

三木さんが、さも自分が気持ちいいかのように言った。ずっと昔、仲の良かった同僚に長女が生まれ、幸恵とともにお祝いに行った時、奥さんが生まれたばかりの子のオムツを替えながら、同じことを言い、自分のことのように気持ち良さそうな顔をしていたのを思い出した。

明くる日、月に三日間だけ泊まりがけで、幸恵を特養に預けられるので、正勝は夜、一人、懐かしさに、三木さんの住む高輪輪中に行った。

ニュータウンと違い、輪中の夜は深く濃厚だった。街灯もところどころぽつんとあるだけだし、家並みもまだ畑や田んぼを挟んで続くので家明かりも連なりはしない。闇は厚く圧し掛かっている。

正勝は村を走る狭い古い街道に車を停めた。午後十一時を回っている。道に人影が無いのはもちろんだが、道に面する家々の窓にも明かりは無かった。距離を置いた街灯の明かりは、闇の中で小さく点るだけだった。正勝はゆっくりと歩いた。隣の村だったから、幼い頃から何度も訪れたし、この道を通って高校へ通った。

泥の匂いを染ませて、風が吹く。夜の底で蠢く生き物の気配が纏いついてくる。まだ強い昼中の残暑に炙られた空気は、熱を孕んでいた。刷いたように汗が滲んだ。水神の小さな祠の前で立ち止まる。見上げれば満月だった。黄色というより赤みを帯びた月は血膨れて星々の輝きを飲み込んでいた。闇が膨らんでいく。

足元の地中深くから声が聞こえる。

『かんじーざあいぼさーつ、ぎょうしーんはんにゃああ はらみったああ』

祖母だ。幸恵のように認知症となり、それでも正勝が結婚する年まで生きた。

輪中の村で祖母と住んでいた頃が正勝の脳裏に浮かんでくる。

「畑に行かにゃ」

認知症になっても、そう言っては鍬を持ち、出かけていった。他所の畑の作物を勝手に掘り出したり、レンコン畑で泥に嵌まって人に助け出されたりした。両親もひたすら謝って回ったが、祖母を責めたてはしなかった。家の中でも、ところ構わず排便した。

「いい加減にしろよ」

ある時、祖母が炊き上がったばかりの飯を、重い釜の蓋を開け、汚れたままの手で掬って口にした。白い飯が茶色に汚れた。祖母の唇は火傷し、真っ赤に腫れあがっている。

正勝は、祖母に手にしたジュースの缶を投げつけた。祖母は口の周りに飯粒を付けて笑っていた。

「正勝、ばあちゃんは、もう神様になったんだよ、罰が当たる」

母はそんな正勝に一言言うと、落ちた飯粒を拾っては口に運んだ。

「そんなこと言ったって。何が神様だ、犬だ、性懲りも無くやる」

怒りは収まらなかった。新聞紙を丸め力任せに祖母を打った。祖母はきょとんとして正勝を見た。馬鹿にされたと、正勝は思った。再び丸めた新聞紙を振り上げた時に祖母が言った。

「まー君」

 幼い正勝を呼んだ時の声だった。怒りが行き場を失った。自分が惨めだった。祖母が、あはは、と乾いた声で笑った。

「良かったね、ばあちゃん、正勝が赦してくれたよ」

 母が祖母の肩を抱いて揺さぶった。

今日は川送りの夜だ。帰って来ている、懐かしい者が。正勝は目を瞑る。

『しょうけんごうんとうかいくう』

正勝は耳の底から聞こえている祖母の心経に唱和した。

生温い風が吹く。振り返ると家の軒に吊られた金銀箔の飾りがクルリクルリとゆっくり回り、月明かりが反射し、闇を揺らしていた。

風が止む。人の濃い気配が肌を撫でる。正勝は濃い闇に目を凝らした。夢か。そうではない。無い事も見えるのだ、在るものとして。死者たちが少し俯き加減に、整然と列を成し黙々と歩いている。口々に呻くように心経を唱えていた。正勝も続く。

『くうふいしきしきふいくう』

村の古い街道が終わる辺りのレンコン畑に行き着いた。夕立の名残の雨粒が蓮の葉の中心に溜まっている。満月の明かりに照らされた蓮の葉が一斉に揺れると葉の中央に溜まった雨の雫はきらりきらりと輝く。帰ってきた死者たちが集まり、身体を揺らしながら一心に般若心経を唱えている。

『まかはんにゃはらみったじ』

 足元では、地虫のくぐもった鳴き声が賑やかだ。泥田の上を吹いてきた風が正勝を抱く。もうどこへも行かなくていい。死者はもう死ぬことも無い、どこへ帰ろうなどと迷うことも無い、ここしかないのだから。見上げた夜空に満月が膨らんでいた。

   遠離一切転倒夢想。究竟涅槃。

 転倒した心を遠く離れれば、永遠の平穏に入る。

転倒夢想、正しくものを見ることが出来ない迷いに在ること。

永遠の平穏は死だと正勝は思う。涅槃という字を書きながら、ふと涅槃のことを想像した。祖父江善光寺の戒壇の途中にあった極楽の様。あれがそうだろうか。

生きて平穏などありえないではないか。死が何もかもが無くなることならその何も無さこそが平穏だ。あの戒壇めぐりの安っぽい極楽の模型にあったのは、安っぽく嘘くさかったが故に何も本当なことではない夢想、死の平穏だった。正勝は写経の筆を止め、窓の向こうに広がる蓮根田を見た。枯れた茎が痩せた骨のように水の引いた泥田の上に突き出ている。澄み渡った秋の空気に陽ざしが黄色く滲んでいた。

「小鳥が鳴いてた」

 秋から冬になりかけていた。幸恵の状態は良かった。感情の起伏に繋がりらしきものがあった。ニュータウンで暮らしていたときには、突然に裏表が入れ替わるような急変振りだった。

「そうか、どんな鳥だった?」

「ルリカケス」

幸恵は一時バードウオッチングに興味を持った。そういうクラブに入ったことは無かったが、二三度、そういうクラブが開催する観察会などには参加していた。

「ぴろーぴろーって鳴いてた」

「ぴろーぴろーってか」

 表現が、例えばこんな風に鳥の鳴き声の表現が少しおかしくなっていた。考えれば擬音なのでどう聞けたかで表現が変わるのだが、それでも、小鳥がぴろーぴろーは首を傾げる表現だった。

 認知症の進行は一気に進んだかと思うと、回復を思わせるように症状は安定したりした。

 丁度四年くらい前から、幸恵は家事が出来なくなった。最初は電気炊飯器のセットが出来なくなった。炊いてもいないのに、保温スイッチにしたり、米を洗わずに炊こうとしたりだった。ある日など、壁に掛けた時計を見上げたまま、何時間もそうしていた。

「何をしている」

 正勝が訊くと、幸恵は悔し涙を流していた。

「何時か分からない」

 時計が読めなくなっていた。時計の針を合わせることを一日中繰り返したり、背中にジッパーがあるワンピースを前後が逆に着たりなど、認知症は一気に進んで行った。

 さすがに異変に気づいて、正勝がそういう間違いを質すと、幸恵は泣き崩れて言った。

「もう壊れちゃったかもしれない」

 幸恵の中の、ぴんと張っていた糸がプツンと音を立てて切れた。

「壊れてなどいない。俺だってもの忘れはしょっちゅうだ。お前も六十を越したからそろそろ、がたが出てきたんだ」

 慰めている正勝自身が、これは取って付けた言い訳だと分っていた。幸恵の低い嗚咽がキッチンに響いた。生米のままで保温状態の炊飯器の赤い電源ランプが光っていた。四年前の二月の寒い日だった。

「赤沼の阿弥陀堂に行こう」

 正勝は幸恵に言った。対岸側にある阿弥陀堂に行くことにした。落ち着いていると言っても、焦燥や被害妄想のようなものは毎日出た。そういう時は家の中に居るより、散歩に連れ出すほうがいいと三木さんに言われていた。

 故郷の姿は大きく変わってしまっていたが、赤沼の周辺はまったくと言っていいほど当時のままだった。車一台がやっと通れそうな道は簡易舗装を突き破って、野草が伸びていた。

「青い月夜の浜辺には」

 幸恵が歌う。まだ元気だった頃、夕食の支度をしながら、幸恵はこの歌をよく歌った。

「親を亡くして鳴く鳥の声」

歌は滑らかに幸恵の唇から零れる。メロディーも大した狂いは無い。紅葉の季節はもうすぐ終わりかけていた。それでも赤沼を巡る道の両脇の林は、まだ赤く色づいた葉の樹木の海だった。

「かんじざーいぼさつ、しょうけんごうんとうかいくう」

 その林の奥から声が忍び寄る。幸恵も歌を止め、その声のするほうに体を向けた。

「般若心経だ」

正勝は思わず呟いた。

幸恵がその声の方に歩き始める。正勝も付いていく。雑木林を抜け、腰ほどの背丈の雑草が生い茂る耕作放棄した田んぼの中を行った。読経の声は地を這うような低く小さなものから、段々と、張りのある艶やかな声になる。その声に従い、幾人もの呟くような声が唱和していた。

「どーいっさいくーやく」

韻律というか抑揚は大げさだった。阿弥陀堂の戸は開けられ、白っぽい頭が十ほど左右に揺れている。

「しきふいくう、くうふいしき」

 幸恵が唱和し始めた。引き寄せられるように阿弥陀堂の中に入っていく。正勝も続く。

「ないしむろうし、やくむろうしじん」

幸恵は皆を押しのけ、一番最前列に座った。そんな無作法な幸恵を誰も咎める者も居なかった。

「のうじょいっさいく、しんじつふこ」

『能除一切苦 真実不虚故』。よく一切の苦を除き、真実にして虚ならず。今目前のことは、全てがそのままで真実だ。正勝は解説にあった一文を思い返した。年寄りたちに、正勝達に向ける好奇も関心も無かった。

 幸恵の身体も揺れる。

 忠雄がいた。その前に身丈三十センチ程の木像がある。壁に貼られた紙には神天一風の書。経を唱えていた忠雄がこちらを向いた。正勝が居ることなど眼中に無いように、更に声を上げた。

「ぎゃてい ぎゃてい はらぎゃてい」

般若心経の最後の部分。一層に声を荒げ、集った老人も幸恵も唱和し叫ぶ。

「ぎゃてい ぎゃてい はらぎゃてい はらそうぎゃてい」

終わるはずなのに忠雄は終わらない。また最後の部分を繰り返す。熱狂が渦巻く。堂内に線香の匂いが立ち込める。うわんうわんと読経が反響した。

「はんにゃはらみったしんぎーょーうー」

 逆巻いて崩れ被さった波が引いていく。

「さあ、お勤めが終わりました」

 今までの憤怒の形相から穏やかな笑みを浮かべた顔になり忠雄が言った。

風船の空気が漏れ萎んでいくように、堂内が和んでいく。老人たちがそれぞれに持ち寄った米、胡瓜、茄子、菓子が堂の片隅に積み上げられていく。

「先達様」

老婆が忠雄の前ににじり寄った。

「なんとな、サダ姉」

「戒壇落としはいつお頼みしたらよかろうかのう」

「毎月の晦日の夜にやるから、その一週間前には準備もせにゃならん。それに呪詛(すそ)返しもある」

「そうやのう、返しか」

「そらなるさ。ちゃんとやらんとあんたの身に返ってくるぞ」

 老婆は悄然として忠雄の前を辞した。皆はそれぞれ帰っていく。その時になって忠雄が正勝に気づいた。

「中村の」

「そうだ」

「いやあ、正勝さんも戻ってきとられましたか」

 正勝は木像の前でぼんやり座っている幸恵の横に座り忠雄と向かい合った。

「八月に来たんだ、女房だ」

忠雄はちらりと幸恵を見ると、ああそうだったのかと言うように二三度頷いた。

「ここで、除霊道場をやってる。こういう人間は沢山知ってる」

「除霊道場?」

「憑いた悪霊を祓うんだ」

 自信有り気に忠雄は胸を張った。

「除霊か。それはそうと戒壇落としって何だ」

「まあ、あんたに言っても分からんさ」

ぷいと横を向くと忠雄はそのまま堂の天井の一点を見つめたまま黙りこくった。人格が入れ替わってしまったような、取り付く島の無さに、正勝は幸恵を促し家に帰った。その夜、正勝は眠れなかった。戒壇落とし。いったい何のことだろう。どこかで耳にしたような言葉ではあった。

朝晩は火が恋しくなった。

「ここに戻ってこられたんですね」

そんな頃原が訪ねてきた。

「幸恵、こっちに来たから寄ったのよ」

 幸恵は、誰だろうという顔で原を見た。原はいかにも懐かしげに幸恵の肩を抱いた。

「忘れちゃったのね、無理も無い、ボ…、認知症ですもの」

「今日はいったい」

「この前の、お数珠の他にもう一つ数珠を持ってきたんです」

原はそう言って幸恵の傍に行くと、腕を取り、持ってきた数珠を嵌めようとした。

「いやだー」

幸恵が叫んだ。

「あなたをお守りするものなのよ」

 原はまだ強引に数珠を嵌めようとした。

「こんなことするな」

幸恵が原の頬を打った。

乾いた音がした。殴られた原は勿論だが殴った幸恵も驚いてそのまま呆然として互いが見合った。

「あーっ」

喉を締め上げたような声だった。泣き出したのは原だった。

「何をするの、この女」

原の目が尖っていた。幸恵は何が起きたのかというような顔だった。

「よくもやってくれたわね」

 原は容赦なく幸恵の頬を打つ。乾いた音が響く。それでも、幸恵はまだ何が起きたのか分からないというように突っ立っていた。

「黙っていれば、このボケが」

「もういいだろう」

 正勝が体を二人の間に割り込ませる。

「あんたも一緒だ、皆一緒だ、ちくしょう、こんなボケに馬鹿にされなきゃいけないのか」

 原は今度は正勝に食って掛かった。

「友達だろう」

「友達なんかじゃない、卒業名簿を手に入れて営業してるんだ。その名簿だってどのくらい金が掛かったと思ってるんだ」

「友達じゃない?」

「そうだよ、こんなのと友達なんかであるわけがない」

 妙な可笑しさが込み上げた。笑い始めたら止まらず、しまいにはただ苦しいだけのような。

「代金をくれ、とにかく代金を払って。慈善事業じゃないんだ、あんただって、少しはこんな偽物の数珠にでも心が楽になっただろう」

 原が言う。原の言うとおりだった。数珠を入浴時以外は幸恵の腕に嵌めてやった。幸恵が望んだのではない。そうしていれば、徘徊しても、大丈夫だと、根拠も無い安心を確かにした。馬鹿なことをと切って捨てた筈の数珠に、正勝は寄りかかっていた。

「幾らだ」

「今日までのレンタル代も含めて五万円」

正勝は財布から札を出した。

「返せ、私のだ、恵子」

 正勝の手から幸恵が札を取り上げた。それを原が奪う。

「お前なんかに必要ない」

 原はズボンのポケットにしまおうとするが幸恵も執拗に奪おうとする。

「私のだ」

「おまえのじゃない」

髪を掴み合い、札を奪おうと必死だった。プツッと音がして、数珠の糸が切れ、緑色の珠が畳の上にサーッと音を立てて転げ広がった。

  得阿耨多羅三藐三菩提。

時雨が日に何度も通り、遠くの伊吹山に雪が付き始めていた。

三世の仏たちも無上の正しい悟りを現実に得た。説明にはそうあった。無上の正しい悟り、とは何だろう。今この幸恵のあるがままの姿を良いとすることなのか。自分がやっている介護と称するものは、ただ自分側の自己弁明に過ぎず、このままの幸恵が生きていくことに何の不安も抱く必要など無いのではないか。正勝は説明を読み思った。

徘徊も多くなった。収穫を終えたレンコン畑の泥の中でどっぷりはまって、大声を上げていたのを連れ戻された。正勝が目を離した隙に台所でガスに火を着け、空のままの鍋を掛けて、もう少しで大事になるところだった。食事ももう箸やスプーンなどを使うことも出来なくなり、直接手で掴んだ。また食べ物には異様な執着を見せ、正勝が食事の準備をしているとその傍から、まだ火を通していない肉を取ったりもした。正勝も限界だった。

「入院させましょうか」

市野先生が言った。

「もう無理でしょうか」

正勝はどうしていいか分からなかった。足腰に痛みが来ていて、それに老いの衰えに身体が晒されてもいた。幸恵のことにかまけている自分だが、幸恵が居なければ、自分こそ老病に屈していただろうとも思った。

「旦那さんが元気であることが、奥さんの生きていられる特効薬ですよ。まずは旦那さんが健康でなければ。そのための入院です、奥さんの」

市野先生の言葉が胸に染みた。

「そうですね。もう自分じゃ無理かもしれない」

「そんなにご自分を責めなくてもいいですよ。本当によくやってこられた」

「ええ」

 自分を責めてるのではないと正勝は思う。こうやって世話をやくというか、こうやって必要とされないと自分が持たないのだった。定年後やりたいことが無かった。ゲートボール、川柳の会、蕎麦打ち、様々なことに挑戦したが、続かなかった。能力に限界というより、そういう人の輪に入っていけない自分が居た。

では一人で何かを、と思っても、今度はその気力も無かった。思えば、定年前からも趣味らしきものもなく、市役所という組織の中で漂うように生きてきた、生かされてきた人生だった。それが認知症を発症した幸恵の世話をするようになり、今まで、感じたことの無い心身の疲労は正直辛い。

しかし、たまにある、幸恵が昔のようになり、心が通った安堵も幸恵が認知症になって初めて感じた。市野先生の言うように、正勝は限界であり、正勝が元気になることが大事だというのも分かる。だが幸恵を預けたら、自分はどんな風に毎日を生きていけばいいのか皆目見当がつかない。何も考えずに、なら、勤めていたころのままだ。子供も居ない、ましてや、友人も近所づきあいも無い、親類とも疎遠になった今、際限の無い孤立を噛み締めるだけではないか。それならまだ、幸恵が傍に居てくれたほうがいい。躊躇が立ちはだかる。

「分かりました、少し考えさせてください」

「急ぎませんが、福祉事務所との調整やらもありますから」

 市野先生のところを後にして家に帰った。

「青い月夜の浜辺には」

最近、幸恵はこの歌を眠りに就く前に必ず歌った。歌声はやがて消えるように途切れる。襖の向こうで寝息に変わる。眠ったようだ。

早々に引っ張り出した炬燵に入りながら、一日の疲れを確かめるように焼酎のお湯割を飲んだ。

入院。正勝の頭の中からこの文字が消えていかない。もうさせるしかないのだろうか。そうしないと、自分はもとより、幸恵も駄目になっていってしまう。この、老い、認知症の介護という船は平穏な日々と言う母港に戻ることが無い。行き着く先は分かりきっている。考えあぐね、窓に寄ってカーテンを払い、戸を開ける。赤沼の水面に月が落ちているのが見える。漣立つ水面でそれは細かに割れて揺れた。ふと、忠雄のことが思い浮かんだ。戒壇落とし。幼い頃の記憶が甦る。

「ちっとも、苦労も感じなくなってきた。もうすぐ、戒壇落としをしてもらえばいいからよ。そうしたら極楽浄土に行ける」

「ばあちゃん、私は、そんなことしねえよ」

「いや、年寄りにはそれが一番、幸せなことだがね、若いあんたにはまだ分からんじゃろうが」

元気だった頃の祖母が、母と二人、のんびりと秋の夜長を、レンコンの砂糖漬けでお茶を飲みながら話していたのを思い出した。小学校の二年生だった正勝には、戒壇は階段のことで何か遊びのことだと思っていた。

 一体、母が戒壇落としを祖母にしたのかどうかは分からないが、今思うと、老いの、それも認知症に対する何らかの知恵なのかもしれない。般若心経ではないが、得阿耨多羅三藐三菩提。無上の正しい悟りもあるかもしれない。正勝は忠雄を訪ねることにした。

「昔からやってる。俺の家の筋はそういう祈祷師の流れなんだ。除霊もそれだから俺が始めたんじゃなくて、家筋の役目なんだ。知っていただろう?」

忠雄は、何を今更、というような口ぶりだった。

「知らなかった。二十も半ばにここを離れて、ただ、正月などに帰るだけだったし」

「そう言えば、青年団にも入っていなかったな。厄年の時も、厄年会でやる祈祷にも帰ってこなかった」

興味が無かったと言えばそれまでだ。母親に同年会に入ったらどうかとか、青年消防団に入らないと、とか言われたが、面倒くさかったし、大学の頃は既に家を空けることが多く、盆暮れも遊びに出かけていた。結婚後も滅多に帰らなかった。正勝は、自分がいかにこの地を離れ、この地と繋がりを断ち切って生きてきたかを、今更に思い知る。

「そうだな」

「奥さんのことだろう、だから戒壇落としのこと聞きたいのだろう?」

戒壇落としの詳しい内容は知らなかった。忠雄の問いに頷いた。

「ぽっくり逝くように祈祷するんだ。昔からある。頼んだ親族も、またその対象の人間も、祈祷する俺も一週間、食い物、飲み物を口にせず祈祷するんだ」

 飲まず食わず、頼んだ者、祈祷する忠雄は分かる、しかしされる者までもとは。

「苦しいのは、頼んだ者だ。だがうまくいけば、楽になる。頼んだほうも頼まれたほうも結果は楽になる。しかし気をつけなきゃいけないのは、頼んだ者がその決まりを破ると、呪詛(すそ)返しって、自分に降りかかってくる、祈祷が。決まりを破るというのは、一週間持ちこたえられずに、ボケてしまった者に食物を与えてしまうことが多い。上っ面な情に流されるんだな。それじゃあ結願しない」

合点がいった。安楽死を試みようというのだ。祷りじゃない、実際飢えさせる。きっと病気なら薬も与えないのだろう。

「やるんならやってやるぞ。今度サダさんのところのをやる」

「この前のか」

「そうだ、旦那がもう八年も寝たきりなんだ。楽にさせてやりたいって思うのは当然だ、生きているのが苦以外の何ものでもないんだ」

 忠雄は淡々と言う。それがいかに禍々しいことかも分かっていないようだ。だが考えてみれば、安楽死を考えないことのほうがおかしい。老いの苦悩、それも介護するものの苦悩はどうだ。苦しいのは自分だけじゃない、双方が楽になれるとしたら、戒壇落とししかないのではないか。

「効果はあるのか」

「そんなこと気にしてるなら止めたほうがいい。効果とかそんなこと測っているうちは駄目だ」

忠雄は哂った。

「疑っているわけじゃないんだが…」

「分かっている。隣同士だったんだ、俺の家の中がどんな風だったか、もう知っているだろう?」

 忠雄の唇が歪んだように見えた。あの頃のことか。正勝は、この前も思い出した忠雄の蛇を殺す姿を、白い作務衣を着込んだ忠雄に重ねる。

「筋者の家、分かるかな」

「うん、何となくだが」

本当に何となくだった。忠雄の家が、たとえば祭りとかそういう時に、神社の祈祷の場に席が無かったりとか、当時の葬式の日は、何故か忠雄は学校を休んで良かったというようなことが断片的に記憶にある。

「おふくろが家出したのが小学校のときだった」

「ああ、…」

正勝もよく覚えている。父親が酒を飲み、荒れ狂って輪中の、共同の当時足代わりだった船を焼いてしまった。

『和江!』

人目も憚らず、燃える船の前で父親は酔い崩れ、泣き叫んでいた。

「家筋というのは、差別だよ。そういう家に生まれた親父は荒んでいた。飲んで暴力を振るうのは日常だった。おふくろは耐えられずに、家を出て行った。俺は我慢したんじゃない。なんて言うか、そうされて生きて行くのが俺なんだと、幼心にも納得してた」

忠雄は淡々と言う。

「葬式のときの葬レン船の船頭や赤沢にあった火葬場の恩亡、そしてこうやって除霊、汚いこと全部させられるんだ。どの輪中にもそういう筋家があったらしい」

 汚いこと。確かにそうだった。忠雄の家が忌み嫌うことをやらされていたのは薄々知ってはいた。

「あの頃は、俺の一家を村の皆で飼っていたようなものだ。除霊も、葬式も火葬場の管理も親父達が身代わりにさせられていたんだ」

「身代わり?」

「不都合を背負わされる。こういう不都合はお前たち、家筋に罪がある。だから償えと、な。道理も糞も無い」

「何も知らなかった」

「知ってたら、差別しなかったか」

 問い詰められる。

「本当は知ってたし、今、知ったじゃないか。それで戒壇落としを止めるか?」   

忠雄の唇が微かに歪む。答えようが無い。

「…」

「いいんだよ。これも昔の、いや今も、人間たちの智恵さ。穢いものは誰かに押しつけて生きる。そういうものさ、人間の社会なんて。自動車会社の工場のライン、昼夜交代で身体は地獄だった。それでも楽だった。目の前の流れて行く車を、自分の担当の分だけ、部品を取り付けてれば良かったからな。誰もが平等だった、ちょうど、誰もが老いて死んでいくように」

忠雄は誰かからの供物らしい一升酒を茶碗に注ぐと冷やのままで一気に呷った。喉仏が大きく上下する。

「うめえ」

忠雄が大きなげっぷを吐きながら言った。

「俺たち一家で背負うしかなかった。養鶏も、祝い事や法事で鶏を潰しご馳走にするために、村の家から俺の家に鶏を預かったのが最初だ。その日が来たら、預かった鶏を潰し届けるんだ。潰すのは親父とおふくろ、届けるのは俺だった。それが数件にもなる祭りの時は、家の裏庭の土はどす黒い赤になる。血だ。おふくろの髪に血球がビーズ玉みたいに幾つも付いてたよ。 親父はそんな家筋に生まれた自分を憎んだだけでは飽き足らず、俺やおふくろも憎んだ。一人で担えなかったんだろう。呻いていた。おふくろは耐え切れずに逃げ出したさ。知ってるだろう?」

「おばさんが居なくなったのはそういうことだったのか」

「俺も中学を出て、自動車会社に就職してここを出て行けたことが本当に嬉しかった。こんなところに絶対に戻らない。そう決めていた。だから四十年以上も、あんな身体には地獄の工場のラインでも勤まったんだ」

「それがどうして」

「生きる場所はあっても死に場所が無い」

「死に場所?」

「うん、死に場所だ。ここには差別がある。されることで一切の世の中の、例えば地位や財産や、そういうものを捨て去れる。そうさ、人が死んだらそういうものが一切関係なくなる時だ。家筋の俺が一番偉くなれる時だ。それが家筋として差別されることだと知った。犬猫と同じだ人間も。ここで家筋の人間として差別されれば、恨みもなく、お前たちと一緒、いや俺は喜んで犬猫くらい何も持たずに自由に死ぬる」

 忠雄はそれ以上言わなかった。また茶碗に酒を注ぐと今度はゆっくり舐めるようにして呑んだ。

一週間が過ぎた。正勝は市野先生のところに一回行った。しかし、入院させる、という決心は着かなかった。あれから一度、忠雄のところにも行った。

「今度の日曜の夜からサダ姉のをやる」

 今日がその日曜日だった。薬で眠りに就いた幸恵を確認し、夜の十時、正勝は家を出た。忠雄のところには歩いて二十分。街灯も無い道に闇は深い。それでも半分に痩せた月明かりは明るく感じた。吐息が白く深い闇を濁す。

 向こうに忠雄の小屋が見えてきた。戸口にまで行くと、粘り気のある特有の祈祷の声が聞こえる。

「おんだあまああ いっさい く はらいて こんじょう みまかり ふしてふして おたのみ もうすうう」

 躊躇ったが中に入った。八畳ほどの板敷きの間には仰々しく、仏像やら曼荼羅が飾ってあった。そして一段高くなった祭壇には釜があり、火が燃えていた。きっと松の枝か何かを焚いたのだろう、肌を刺す熱さがある。

「みやさかのとうきちの こんじょうの わざわいにいい すそをかぶせほおむりたてまつらんことを かさねてかさねて おたのみもうすう」

 忠雄は手にしていた榊をその火で燃やし、自分とその横に居るサダ姉という老婆に振りかざした。火の粉が雨粒のように二人に掛かる。大きく両腕を振り回す。忠雄は狂っていた。全身に興奮が漲っている。肉の焼けたような嫌な匂いがする。老婆が髪に火の粉が残り焦がすのも構わないでいる。忠雄の髪も燃えているところがあった。ふたりは、大声を張り上げて唱える。

「おんだあまそわかあ おんだあまそわかあ」

全身を激しく揺らす。焼け付くような熱さが正勝の体の表面に貼りつく。

「おんあろりかそわかあ おんあろりかそわかあ」

忠雄は激しく身体を揺らし続ける。

呪詛。怨みで人を蝕み、壊していく。先日の忠雄の話から、忠雄がこの村の人間たちにどれほど深い呪詛を抱いているのか分った。正勝の足元から震えが這い上がった。俺は幸恵を憎み怨んでいるのだろうか。二人とも楽になるのではなく、恨みを晴らして自分だけが楽になろうとしている。俺は…。正勝の喉が焼け付く。立っていることも出来ずに、家に戻った。炬燵の上の焼酎をコップに注いで割らずに一気に呷った。針を飲んだような痛みが、喉、食道、胃を駆け抜けていった。脈音が耳の底で太鼓を打ち鳴らすように聞こえるが、室内は重い静寂が層を成し、幸恵の平和な寝息が小さく響いていた。

 その日以来、何をしても手につかなかった。

迷い続ける。直接手を下すのではない、ただ祈るのだ。殺してくれというのではない、楽にしてくれというのだ。今の時代、祈りや呪詛が通じるなんて考えること自体、なんとも滑稽だ。だが、祈るだけならいいのではないか。それで、事が成り、楽になれたらそれでいい。それに今、幸恵を救ってやれるのは、忠雄の戒壇落とししかないのじゃないだろうか。実際に手に掛けることをするのじゃない、幸恵も俺もそれで救われる。市野先生のいう入院も分かるが、これしか今の自分達を救うものは無いのじゃないか。人間は人間を、最後、愛することなど出来ない。棄てるのだ、愛も憎悪も。何度も自分に言い聞かせた。

一週間が過ぎた。正勝は、最後の夜の筈の戒壇落としを見届けようと家を出た。赤沼の辺にある阿弥陀堂を過ぎた頃、急に夜が赤く染まった。急いで行ってみると、赤沼の水際に建っている忠雄の小屋が炎に包まれていた。急に赤く夜が染まったのは、炎が屋根や壁を燃え破ったからだった。

「ああーっ、あーっ、燃えちまう、燃えちまう」

燃え盛る小屋の前で狂った犬のように走りまわりながら忠雄が叫んでいる。その後ろで、サダ姉が地べたにペタリと座り込んで茫然と燃える小屋を見ている。

「忠雄、大丈夫か」

正勝は忠雄に声を掛けた。

「ああーっ、ああーっ」

大声を張り上げて忠雄が正勝を振り向いた。

「危ないぞ、忠雄、こっちに来い」

 正勝が叫んだ。

「あいやあ もろもろかみがみ もろもろ…」

 忠雄の絶叫が喉が破れたように掠れている。叫びの最後は炎が小屋を舐め尽くす音で聞こえなかった。忠雄の顔は目が恐怖と怒りで吊りあがり、口を大きく開けていた。それが一瞬正勝には、忠雄が笑ったように見えた。

「あああーっ、ああーっ」

忠雄はくるりと振り向くと、また大声で叫び、そのまま燃え盛る小屋の中に走り込んで行った。後姿はすぐに炎に飲み込まれ消えた。『差別されて犬猫みたいに自由になって死ぬ』、忠雄の言葉が甦る。

正勝の腰が抜けた。焼けた火箸を顔に押し付けられたような熱さを感じた。その熱さに顔をそむけると、赤沼の水面が目に入った。真っ赤に焼ける小屋が映っている。炎は狂ったように水の上でも踊っている。

遠くから消防車のサイレンが近づいてくる。水底から戒壇巡りの途中にあった作り物の極楽が浮かんできた。

   是大神咒。是大明咒。是無上咒。是無等等咒。能除一切苦。    

真実不虚故。

 説明にはこうあった。咒はシュと読み、まじなう、または呪うという意味。しかしこれは知恵の完成の大いなる真言であるとの意味だと。無上の真言、無比の真言は全ての苦しみを鎮めるものであり、偽りが無い故に真実であると。

 大晦日に雪が降った。それまでちらついたことはあったが、大晦日からの雪は正月をまたぎ二日まで続いて二十センチくらい積もった。養老山地も真っ白に雪化粧をし、輪中の畑やレンコン畑の沼田も雪の下に隠れた。一面の銀世界だった。

四日の仕事始めに三木さんが来てくれた。

「インフルエンザが流行ってますから注意してください。それはそうと去年は大変なことがありましたね、赤沼で」

忠雄のことだ。

「私の幼馴染だったんですよ、彼は」

「そうだったんですか。なんか呪いめいたことをやって老人たちを騙していたとか」

 呪いか。だがあれは人を騙すことではなかった。ずっと前からここではああやって戒壇落としがあった。皆信じていた。縋っていた。心経の説明書に咒は呪いのことだと書いてあった。呪詛こそは人間が捨てきれないものだろう。それだから大いなる悟りの真言だということだ。自分も一瞬だったが忠雄の言葉に真実を感じたし同調した。もし、あのサダ姉の戒壇落としが火事にならなければ、自分もきっと幸恵の戒壇落としを忠雄に頼んだに違いない。己への呪詛。生きている自分にはもうそれしか残っていないようだ。

「騙されてもそれで幸せだったかもしれませんよ、老いるとね」

 正勝に空虚な日々が続いた。幸恵の徘徊がひどくなっていた。素足のまま食事の買い物に行くと言って、庭に下りて駆け出したり、風呂場から目を離すと素裸のまま外に出た。

だが市野先生のところに行っても、入院させようと思えなくなっていた。どうしたら良いかも考えられなくなっていた。どうしたって、人は死ぬしかない、だったら生きていくことに形など無いではないか、どんなに惨めだと他人から思われようと、そう在るしかないならそう在ればいいのではないか。正勝はとうとう一日の大半を、幸恵をベッドに括りつけておく方法を取った。

「三木さん、白状します。あなたが来るついさっきまで、幸恵をベッドにこの浴衣の帯で括りつけていました」

 三木さんは正勝が差し出した帯を驚いた顔で受け取り、それからじっとそれを見た。

「苦しいでしょうね」

「家内を苦しめることでしか、生かしてやれません」

「いえ、ご主人がです。在宅で最後を、と最近よく言われます。実際、最後は家に引き取る方もみえます。でも本当に最後の最後、やっぱり救急車を呼んで病院にと、してしまう方が多いです。入院させるかどうか、それはご自分たちで決めれば良いかと思います。どうやって面倒をみるか、みてもらうか、それもご自分たちで決めればいいと思います。だって夫婦、男と女の間のことのような気がします。介護者と被介護者のことではありません」

正勝は胸の痞えが取れたような気がした。こうやって幸恵を括りつけることを良しと言ってもらったのじゃなく、男と女のことだ、それは決して第三者に分かって貰う、貰えることではないのだという言葉にだった。老いの在りようではなく、老いた男と女の在りようだ。

「なるべく苦しくないようにしながら、やっていきます」

「良かったら、訪問回数を増やしましょう。そうすれば縛っておく時間も減るでしょう、少しは」

「お願いできますか」

「多分大丈夫です」

 三木さんのお陰で、訪問回数は週三日と、前の三倍になった。

 正勝に少し余裕が出来た。今日は入浴車が来て、幸恵を風呂に入れてくれた。さすがにこれは気持ちがいいのか、幸恵もいかにも嬉しげだった。

「青い月夜の浜辺には」

いつもの鼻歌が出る。

「親をなくして鳴く鳥の声」

三木さんともう一人の介護者が、幸恵のまだ若さも残る身体を洗いながら唱和する。

「旦那さん、入浴が済んだら、暫く見てますから、旦那さんもお風呂、水晶の湯にでも行ってらしたらいいですよ」

三木さんが正勝に言った。水晶の湯というのは養老山地の中腹にある日帰り温泉でここから車で三十分だった。

「いいですか」

「いいですよ、もう随分骨休めもしていられなかったでしょう?」

言われればそうだった。幸恵のことに掛かりきりになり、小さな息抜きすら出来なかった。

「じゃあ、お言葉に甘えさせてください」

養老山地も真っ白な雪の世界だった。麓で車を降り、送迎バスで中腹にある温泉に行く。平日だったせいか客は殆ど居なかった。温泉は塩分を含む、いかにも温泉らしく柔らかな湯だった。

身体を洗う。髭を剃るときにじっくりと鏡に映る自分を見た。喉の皮膚は弛みきって皴が深く幾重にも重なっている。そこに白い髭が疎らに生えていた。思えば、髭などもゆっくりと当たることなど出来ず、そそくさと済ませてしまう入浴だった。自分の髭を剃り残していることにさえ気づかなかった。無精髭ではない貧相でみっともない剃り忘れの髭が喉仏の上に二本あった。

これが老人の姿だ。妙に鏡の自分が自分でなく、まるでどこかの写真で見る老人だった。身勝手なもので、自分はまだ若いのだという思い上がりが胸のずっと底にはある。若さとはその思い上がりだけのことで、実体など無い。

髭を丁寧に剃り、身体を愛おしげに洗う。薄皮でなく硬く乾いた真皮が一皮むけるようだ。久しぶりのゆっくりとした入浴は身体が湯に溶け出してしまうような開放感があった。ひとしきり内湯で身体を温めてから露天風呂に行った。

「ああ…」

それきり言葉が消えた。山の中腹にある露天風呂から、輪中の風景が一望だった。雪を被った家々、広々と続く田やレンコン畑の真っ白なシーツを広げ波打たせたような景色、そこに傾きかけた陽射しが黄色く零れ広がっている。揖斐川が大きくうねり景色の真ん中を流れる。川に架かった橋を豆粒みたいな車が渡っていた。祖父江善光寺の戒壇巡りで見た、あの極楽の世界が正勝の脳裏に広がる。

「お浄土だな、幸恵」

正勝は深く息を吐き、ゆっくりと湯船に身体を沈めた。

油断だった。二日後、正勝が炬燵で転寝をしていた隙に幸恵は紐を解いて徘徊し、凍った道で転倒し大腿骨頚部骨折という重傷を負った。

「おかしなことに、結果入院ということになってしまいましたね」

 市野先生は正勝を責めるつもりなどもとより無かったろうが、正勝は自分の不注意は、あれほど拒んでいた入院をさせるための方便だったかとさえ思った。

「申し訳ありません」

「何も謝らなくたって。それより、手術もうまくいったようです。明日退院ですが、これからが大変ですよ」

「はい、分かりました。今度何かあったらそのときは入院をお願いします」

「分かりました。まずは外科の退院です、頑張ってください」

市野先生の言った、大変ということが正勝に身に染みた。徘徊だとかそういうことが無くなるが、足が動かない幸恵は寝たきりに等しくなってしまった。排便、食事、寝返り、全て正勝の介助を必要とした。徘徊のときは、こんな小さな身体に、正勝を突き飛ばすような力があることが不思議だったが、寝たきりの状態になると、その体の重さは大変だった。抱えきれない、支えきれない、三木さんたちを見ていると、さも簡単そうに見えたが、実際はとんでもない力を要することだった。生きている人間の体の重さを感じさせていないのは、その身体に意思とかそういうものがあるからなんだと思い知った。意思を無くしてしまった身体、ただの肉の塊の重さ、不随さ。正勝は自分の老いて痩せた身体を風呂上りの鏡に映しながら、俺も認知症、いや行き倒れて路上に転がっていたらさぞや重いだけの肉の塊だろうとしみじみと思った。

   即説咒日。羯諦 羯諦 般羅羯諦 般羅僧羯諦 菩提僧 

莎訶。般若波羅蜜多心経。

 羯諦とは往ける者と説明書に書いてある。般羅とは彼岸のことだとも。読み下し文もあった。

往ける者よ、往ける者よ、彼岸に往ける者よ、彼岸に全く往ける者よ、悟りよ、幸あれ。ここに知恵の完成の心が終わった。

先ほど書き終えたばかりの般若心経の写経で幸恵の骨を包み、骨壷に入れた。書いたのは左手だった。右手も使えたが、ぎこちなさは明らかだったが敢えて利き腕でない左で書いた。

幸恵が逝って丁度一月が経つ。

介護用ベッドも、食事用のテーブルも、喜んで座ったロッキングチェアも、そのままだ。何げにふっとそれらを見ると、目だけを大きく開いて天井板を物珍しそうに見上げたり、涎かけを掛けて今か今かと食事を待ったり、子供のように椅子を前後に揺らし、気分良く、青い月夜の浜辺には、と歌う幸恵の姿がありありと正勝の目に映る。居なくなった。それが現実感を帯びてこなかった。
逝ってしまったという寂しさは在るには在ったが、胸を絞るようなものではなかった。
まだ傍に居て、正勝に何かを言ったりするようだった。そのせいか、正勝の独り言が多くなった。おい、ご飯だぞ。さあ、風呂に入ろう。ああ、いい空気だ。誰かが見たら、正勝こそ認知症を患ったのではないかと思ったかもしれない。だが、正勝はそれで良かった。生きている人間だけが心を持つのでもない。身体は虚仮、在る者は空、見えずに無いものこそ在る。そんな気がした。

それにしても、退院してきてからは、身動きのままならない幸恵に徘徊とは違う大変さがあったが、何年かぶりの心が静かで穏やかな日々だったともいえる。特に食事介護のときが心が和んだ。

「いいか、よく噛むのだぞ」

粉砕食にしたものをスプーンで口に運んでやる。幸恵は素直に口を開けた。

「これはお前が好きだった鯖だ。ミキサーに掛けると美味くないから細かく手で裂いてやったからな」

幸恵の好物だった鯖も味噌で煮て、細かく手で裂いて食べさせた。

「ちょっと待て、拭いてからだ」

どうしても零して口の周りに煮汁などがつくと、欲しがる幸恵を制しタオルで拭ってやる。そんな時に、幼子のように早くくれという素振りを見せる幸恵が愛おしかった。

「どうしたんだ」

何が起きたか分からなかった。幸恵はいきなり唇を尖らし身体を反らせた。大きく開いた目の眼球が剥き出しになる。微かに空気が漏れるような音がする。

誤嚥。

市野先生に一番言われていたことだった。僅か数分だったろう、とんでもなく長く感じた。気づいて必死に背中を摩り、口に指を突っ込んだが、苦悶の表情は変わらず、幸恵はそのまま逝った。呆気なかった。こんなに簡単に人は死ぬんだ。正勝は幸恵に食べさせるはずの鯖の味噌煮を一口口にした。甘辛い味噌味が口の中に広がった。

「本当によくある事故なんです。中村さんだけじゃない。残された方に罪悪感が残ってしまう。ああすれば良かったこうすれば良かった。しかしプロの介護士や医者、看護師にだってどうしようもないことなんですよ」

 市野先生も三木さんもそう言ってくれた。だが、正勝にあるのは罪悪感ではなかった。

 苦しみ悶く幸恵を見ながら、一瞬だったが、正勝の脳裏を過ぎったものがあった。逝くかも知れない、そうすれば楽になる。それだった。あのとき、一瞬にしろ、正勝の手は止まった。それが妙に当たり前だった。人を殺す瞬間に罪悪感など無かった。

 この一月はひたすらに写経をした。百八枚を書いた。百八、煩悩の数だ。その紙で幸恵の骨を包んだ。正勝の両親の墓に幸恵のお骨を納めるために今日は出かけた。

寒さが戻ってきていた。明日から四月になるというのに、今朝吹雪いた。雪を抱いたままの寒気は、長野や岐阜の北部のように山脈が遮ればそこで雪を降らすのだが、遮る山脈も無く琵琶湖を突き抜けこの濃尾平野に来る。たった一つぽつんと聳える伊吹山に思いのほか雪が深いのはそのせいだ。だからこの季節に、この寒気の通り道のここに雪が舞うことは不思議ではなかったが、積雪までもあるのは正勝も初めてだった。

墓は赤沼の忠雄の小屋の反対側にある。南向きで開けた場所だ。阿弥陀堂を過ぎ忠雄の小屋のあったところに来た。燃えた柱が数本まだ黒々とした姿を雪を被って晒していた。

誰の踏み跡も無い雪のうっすらと積もった道を行く。きゅっきゅっと長靴の下で雪が鳴った。凍りついた空気に息が白く濁る。やがて墓地が見えてきた。その向こうは揖斐川の川原に連なる。

正勝の両親の墓は入り口近くだ。昨日までのぽかぽか陽気で墓地の入り口付近の桜は七分咲きだった。

真っ白な一面の雪原。墓石は薄く雪化粧をし、その横で桜の桃色の花弁が咲いている。踏み跡もない白い道を歩いていくと、雲が割れ陽光が一気に差し込んだ。墓地に光が溢れる。墓石が陽光に輝いて起っている。

ぎゃてい ぎゃてい ぎゃてい ぎゃてい

背後から心経の最後の部分を唱える声がした。振り返るとカラスの群れが真っ白な田に降り立ち、鳴き喚いている。

ぎゃてい ぎゃてい はらぎゃてい

正勝は両親の墓で止まらず川原に下りた。遠くの伊吹山は雪を纏ってまぶしく輝く。すぐ目の前には揖斐川が川面を光らせて流れる。川に突き出た渡し船の桟橋を突端まで歩いた。水は勢いよく流れて行く。芽ぶき始めた彼岸の柳の緑が目に染みる。

ぎゃてい ぎゃてい ぎゃてい

カラスの鳴き声が背後で一層大きくなる。彼岸の柳の枝が手招くように揺れる。

「幸恵、ここが、この世の果てだぞ、とうとう来た」

川面に青い空だけが映っている。


(了)



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イラストは生成AIに描いてもらいました。