お賽銭問題
昨日、近くの神社にお参りに行くと、偶然、茅の輪くぐりをやってましてね。
そのご利益は、“疫病退散”ということでね、このコロナが再急拡大している時期はちょうどいいなってということで、くぐってきたわけですよ。
300円をお支払いすると、小さな木のお守りがもらえて、人型の白い紙に家族の名前を記入すると、後でお払いをしてもらえるそうで。氏子さんと思われるご高齢の男性2人が、人懐っこく優しく対応してくれました。
まぁ、300円ならね。やってみましょうか、となる。
それで本気でコロナから防げるとは思っていませんけど・・・
この、そんなに期待していない気持ちは金額の問題、それとも科学的でないから?
私の中にはお賽銭問題というものがあってですね、
お賽銭するにはいくらぐらいがいいのか、ということであります。私は結構、お参りする方で、コロナで外出が少なくなったから、お参りの回数も少なくなりましたが、それでも、週に1か所以上はお参りしてお賽銭をしているのでありますよ。
で、何か大きめのお願いする時は、どうしても金額が大きくしてしまう。
で、その次に訪れた時、神さま、仏さまにセコく思われたいから、ついつい同じ金額してしまう傾向があって・・・そんなことを繰り返していると、徐々に雪だるま式にお賽銭が増えていって・・・そうなると、金銭的重圧が高くなって、だんだん寺社へのお参りに足が遠のいてしまって・・・それでは本末転倒なので、自分の中で、ある程度、金額を決めているところがあるですよ。
私は器のちっちゃい人間ですから、ちょっと大きめの金額をお賽銭したり、ご祈祷とか、寄付とかでお支払いする場合には、“10倍くらいになって戻ってくるから”と念ずるように自分に言い聞かせて、財布からお金を取り出したりするのですよね。
で、どこかですね、お賽銭箱を“幸福の自動販売機”のように考えている節があるのですよ。
それは違うだろうって、自分のことを恥ずかしく思ったりして、反省して・・・
でもね、かといって、お賽銭を全く止めてしまうというのも、どうかと思うのですよね。
私の知り合いの「12ハウスの男」で紹介したSさんは、お賽銭はしないと固く決めているのですがね。
有名で人気のある大きな寺社はお賽銭が無くてもやっていけるでしょうが、地方のね、地元の人しかお参りに来ない神社とか、お地蔵様とか、祠(ほこら)とかはね、お賽銭で運営されているわけでしてね。氏子さんたちがお掃除したらペットボトルのお茶を配るとか、年に一度、神職さんがやってきて神事するとか、まぁ、現実、そこそこお金がかかるわけですよ。
だから、やっぱり多少はお賽銭するべきだと思うのですよ。
ただ金額分、願い事を神さま、仏さまが聞いてくれるかどうかは、話が違うでしょう。
だって、運営費が必要というのは管理する人間側の都合ですからね。
参拝する側は、熱い信仰心、思いを金額で試している、表しているということがあって、それが神さま、仏さまに通じているかもしれませんが・・・
じゃ、必要以上のお金はどこへ行くのか・・・
やはり神仏への“思い”が基本、ベースと思いますよ。金額の大きさじゃなくて。
安倍元首相の襲撃事件の背景に、母親の旧統一教会への1億円にのぼる寄付で自己破産して、家庭崩壊というものがあって・・・で、一般的な意見としては、愚かにも何故、そこまでして寄付をしてしまったのかという疑問がよく投げられていますよね。
寄進する側には、どこか、“お金を出した分だけ、幸福になって戻ってくる”とか、“金額に比例したご利益が返ってくる”とか、“倍になって戻ってくる”という、幸福の自動販売機的な感覚があったのではないですかね。
この点を突かれて、口の上手い人にそそのかされると・・・特にしんどい星並びが多い時期には・・・結構、多くの人が寄進してしまう可能性があって、“幸福”とか“救われたい”という欲に対して、自分の経済力と照らし合わせて、ちゃんと理性的な分別、自制心がちゃんと働きますかね。
あんまり他人ごとにしない方がいいような気がしますね。