占い師 Nさんのこと


先週、半年間続けてきた名古屋ホロスコープ講座が終了しました。
受講生の中に、時々ぽつりぽつりと参加して頂けるNさんという年配の男性がおりましてね。もう還暦を越えていて、白髪で、金縁の眼鏡を掛けていて、いつもアイロンのかかったシャツを着ていらっしゃる。いつもニコニコしていて穏和で、でも、普段は人事系のコンサルタント業をされているので、真面目そうな雰囲気が漂っています。

それで、講座後のお茶会では大きなチョコレートパフェを注文して、そのパフェが来ると、わぁーと声を上げて、目をキラキラさせて、笑みを浮かべるようなお茶目な人なのです。口数は少ないですが、時々天然な発言で、場を和ます癒しキャラなのであります。

このNさん、副業ですが、実はプロの占い師でもあります。
見た目から言えば、私なんかより全然、ベテラン占い師の風格ありますよ。
タロット、オラクルカードをメインとしています。これまでも婚活に悩む女性を出会いからサポートして、60人ほどをゴールインさせています。
さらにホロスコープも身に付けたいということで、私の講座にお越し頂いているのです。ご自身の占いの仕事とかぶらない限りは出席してくれているのですよ。

Nさんが最初に私の講座にお越し頂いたのはもう10年くらい前。長いです。でも、そこから、ずっと10年間お越し頂いているかというとそうでもなく・・・また昨年から再びお越し頂くようになったのです。
そのブランクの間、Nさんはご両親の看病、介護をしていたのです。

Nさんは名古屋のオフィス街に事務所を借りて、お一人でコンサルタント業をしていました。
2019年1月に母親が卵巣の腫瘍を患い、入院することになりました。
今度は突然、父親が脳梗塞で倒れ、しばらく入院して帰らぬ人となりました。
Nさんは独身。Nさんには兄はいるのですが、東京での仕事で忙しく、名古屋には帰ってこられない。そんな家族の事情で、Nさんが看病、介護するしかなかったのです。

Nさんは2020年6月から、ハードな母の在宅介護が始まりました。
自宅でコンサルタント業の仕事をこなしつつ、1日を多くの時間を母親の介護に費やしていったのです。

ここで、まずはNさんと母親の相性をホロスコープで診てみましょう。
内側が母親で、外側がNさんであります。
本人が特定されないように生年月日は隠しております。

【ここでホロスコープ初心者の方のためにアスペクト(角度)のことを簡単に伝えると、星同士の角度が0、60、120度の時は“吉角”と言って、良い働きをする角度。90、180度、つまり直角か、真裏に星が来ると、“凶角”と言って、強く出過ぎて、害になりやすい影響を与える角度。詳しくは私のサイトを見てね。】


NさんのMC(天頂)に、母の火星♂と土星♄が乗っています。それは同時にNさんの太陽☉に、母の火星♂、土星♄が重なっている状態でもあります(黄色のライン)。
母の火星♂と土星♄が、Nさんの社会的な影響を表すMCと太陽☉に重圧、プレッシャーを与えます。
MCに相手の土星♄が乗っていると、その人に関する責任や役割が降ってきます。つまりここでは母に関する責任役割ということでしょう。ここで母の世話や介護をすることになったのも、このMC土星の相性かもしれません。
MCに相手の火星♂が乗っていると、活力、元気を与えられるか、圧を受けることがあります。Nさんの話によれば、この介護は、圧でもあり、挑戦、チャレンジでもあったようです。

本人のMCに、親の火星♂と土星♄が乗ると、よく叱られたという形で出ることが多いですが、Nさんの場合、

“母から厳しく注意されたことは一度もなくて、いつもゆる〜い感じで諭されてました。母にゆる〜く言われると反発心も湧かなくて、スッと腑に落ちる感じでした。やっぱり教師でその道のプロだったのだと思います。”

だったそうだ。

次に、Nさんの金星♀に、母の太陽☉、水星☿が乗っています(水色の楕円)。水星☿と金星♀のアスペクトを私は“おしゃべり星”と呼んでいますが、おしゃべりが盛り上がったのではないですかね。

そして、注目したいのは


Nさんの月☽と、母の金星♀、木星♃、天王星♅とグランドトラインを形成しています。
グランドトラインとは120度吉角が3つ組み合わさった強い吉角アスペクトです。金星♀と木星♃の吉角アスペクトは温かく家族のような親しみを感じる相手です。月☽は母親とか、家庭、心などを意味します。この3つが組み合わさってグランドトラインを形成しているなんて・・・もともと家族ですが、より愛情深さのある母息子だったのでしょう。

そして、内側の母のホロスコ―プに注目すると、金星♀と木星♃が120度吉角を形成しているのが分かります。これは人気運があります。そこに天王星が加わっていて、人を惹きつける魅力が大変あったことでしょう。

そんなNさんの母は、昔、中学教師でした。
科目は国語と英語。授業は漫談のようで、生徒たちから人気があったそうです。
時代は昭和。フルタイムで働いていたので忙しい人でした。
だから、Nさんは幼い頃、昼間親戚のおばちゃんの家に預けられていました。幼稚園に入ってからは、祖父母に面倒を見てもらいました。

Nさんには、まだ3,4歳ごろの遠い記憶があります。
朝、母が自転車で出勤する時、寂しくて、Nさんは自転車をよく追いかけたそうです。

父は鹿児島生まれの九州男児。元自衛官で無口な人でした。昭和元年生まれ。その父も働き者でした。
そんな環境だったから、両親が運動会とか、授業参観に来てくれたことは一度も無かった。

ただ、Nさんが小学5年生の時、家庭訪問は一度だけ、母が対応してくれた。その1回だけですが、母が学校を休んで、学校のことをしてくれたのがNさんはとても嬉しくて、母の思い出の1つとなっています。

小学6年生になると、Nさんは星に興味を持ち始め、毎晩、星座早見表を持って、公園に行ったり、プラネタリウムのある科学館に通いました。
そんな姿を見ていた母は、Nさんが中学校に入学すると、ポンっと高価な天体望遠鏡や接眼レンズを買ってくれたそうです。Nさんは夜、空が晴れていれば、胸をわくわくさせて、その天体望遠鏡で毎晩のように星を眺めていたそうです。

Nさんは、やがて社会人となって、サラリーマンとなるのですが、32歳の時に退職しました。内向的で繊細な性格が、組織に馴染めなかったそうです。その後独立し、経営コンサルタントの事務所を名古屋のオフィス街に開設しました。母は独立したことや、結婚のことでも心配をしていろいろ小言もありましたが、Nさんが40歳を越える頃にはもう何も言わなくなったそうです。

そして、2019年に母の卵巣の腫瘍が見つかり、入院することに。
この時期から、Nさんの生活は一変します。看病と介護に奔走する日々となりました。

2020年には父も脳梗塞で入院し、4月に亡くなります。その最後の一ヶ月間は、病院の許可を得て、毎日泊まり込みました。Nさんは父の最期を看取ることができました。

父の亡くなる前から、母を住居型の介護施設に入所させていたのですが・・・施設側はまったく母を車椅子に乗せず、ずっとベッドに寝たきりにさせていたのです。Nさんは毎日介護の様子を見に行き、もっと動かしてもらうように交渉していました。しかし、何度交渉しても、事態は変わりません。
最終的にはNさんが毎日夕方に行って、母を車椅子に乗せて、動かしていました。
2020年の春にコロナ禍が本格的になりました。そんな施設ですから、どんな処置されているのか不安で・・・施設内でコロナが広がって、母が命を落とすかもしれない。
Nさんは、そんな事ならいっそ自分が引き取ろうと決意したのです。

母の在宅介護が始まりました。母はこの時、92歳。先は長くないと悟ってはいました。

この時の母は要介護5でした。自分で身体を動かすこともできず、食事も鼻から管を入れて、栄養を摂っていました。
介護生活で一番大変だったのはハードなスケジュールを守ることでした。遅れることなく、時間通りきっちりヘルパーさん、看護師さんがやって来ました。むしろ早く着くことが多く、真面目なNさんは待たせないよう、気を遣っていました。そのため社長秘書なみの時間管理が必要だったそうです。
Nさんの一日です。

4:00   起床  仕事を4時間する。
8:00   ヘルパーさんが来てオムツ交換
9:00   鼻から経管栄養(2時間)
11:00   訪問入浴(週2回 1時間)
12:00〜13:00 パルコで息抜き 
14:00   訪問看護・指圧(週4回)
16:00   車椅子移乗させ外出
18:00   ヘルパーさん来てオムツ交換
19:00  鼻から経管栄養(2時間)
21:00   仕事
23:00  就寝

これが土日も関係なく毎日続いたのです。
身体は動かずとも、母の意識ははっきりしていました。
Nさんは夕方になると、45kgの母をベッドから車椅子で移動させて、外に連れ出していました。近所のスーパーに連れて行くと、母は大喜び。
ただスーパーの中では買い物はせず、素通りするだけ。
コロナの時期なので、感染しないようにしていたのです。本当はその場で好きな物を買ってあげたかったのですが。
母はコーヒーゼリーが大好きでした。母が指差したり、興味を示したコーヒーゼリーを、Nさんは後から夜一人で買いに行きました。そして、Nさんはコーヒーゼリーをスプーンで母の口に運び、食べさせたのでした。

母が経管栄養(鼻から管で栄養を入れる)をしている間、Nさんもレトルトカレーなどで食事をしていました。そんな風に、毎日、昼食と夕食の時間を母と一緒に過ごしていました。

Nさんが唯一、くつろげた時間は、母が眠っているお昼の時間だけでした。
12:00~13:00の間、毎日、名古屋パルコにあるスタバに行っていました。行くのに15分くらいかかるので、往復30分。ですから、Nさんが自由に過ごせる時間は残りの30分くらいでした。
フラペチーノを飲んだり、コーヒーを味わいながら、サンドイッチや石窯フィローネを食べたり。

でも、その間も、部屋に設置したカメラの映像をスマホで見て、母のことを常にチェックしていました。

毎日、7階にあるスタバからエスカレーターで上がっていき、当時、8階にあった占いブースを眺めていました。

“いつか、あそこに座れたらいいな。”と。
でも、それは、母の死を意味するので、“いかん、いかん”と我に返って、その思いを打ち消していました。
Nさんはぐっと手を握り、占い師への憧れを封じてきたのです。

そんな生活が一年以上続き、2021年10月6日に母は大往生しました。93歳。

幼い頃見ていた、職場の中学校へ自転車で出勤する時の 母の 後姿。
その風景が脳裏に浮かんだそうです。

自分は母の在宅介護を最期までやりきった。天命を果たした、と感じたそうです。

“母の最期は眠るように静かな感じでした。兄は間に合わなかったのですが、救急搬送した病院で私がそばに居て、永遠の時間がその中にあるような…今まで感じたことのない幸福感に満ちた時間でした。言葉はなかったです。”

コロナ禍で、兄と2人だけのシンプルな葬儀となりました。
参列者の対応が無かった分、お別れに集中できました。

母のことで一段落した後、Nさんは名古屋パルコ鑑定所を運営する会社を訪れ、オーディション(占い業界では面接のことをこう言います)を受けました。
無事に合格して、今は毎月、第2,4週の日曜日に「カシオペア」という名で鑑定をしています。

“母は、教え子が年頃になるとお嫁さんお婿さんを世話してくっつけて喜んでいたので、いまの私は占い師で同じことをしているのかもしれません。”

Nさんの占いのメインはタロット、オラクルカードですが、相性や継続的な時期の運気などを診る時は、ホロスコープを使うそうです。
ただお客さんを前にして、ホロスコープで鑑定しようとすると緊張して、今でも心臓がドキドキするという。
さらに占いの腕を向上させたいと、貪欲になっています。
困っている人の話を聞いてあげたい、力になってあげたいという気持ちが人一倍強いのです。

また名古屋でも来年もホロスコープ講座を開催する予定です。
Nさんはまたご自身の占いのお仕事とかぶらない限り、ご参加頂けるらしいです。

いやいや、まったく私は恐縮してしまうのですよね。

あの優しく、にこやかなNさんに、こんな強さがあるとは。
皆さん、内緒ですよ。


イラストは生成AIによるものです。