Chiyokoおばさん (Tスクエアを持つ人)
母が亡くなって、2年が経ち、先日、三回忌の法要を行った。
お袋はいつも紺色の小さな布のポーチを持ち歩いていた。
そのポーチは、今も茶箪笥の棚に置いてある。目に付くところだ。法要の日が近づいてきたので、懐かしく思い、久しぶりに開けてみた。
その中には、年寄りの必需品の健康保険証や多くの病院の診察券。店がよく分からないポイントカードが数枚。孫からの手紙。がまぐちの財布。がまぐちの財布は、私が小学校ぐらいからお袋が使っているものだった。小学生や中学生の頃の私は、そこからいつもお小遣いやお札が出てくるのを注視していた覚えがある。がまぐちを開ける時は、そこからいくらお金が出てくるのだろう、というわくわくしていたものだった。
そのポーチの中に、期限がとっく切れたパスポートと写真が数枚入っていた。
お袋は一度だけ、海外旅行をしたことがある。
私とフロリダに行ったのだ。
お袋の姉は、今から50年以上昔の昭和30年代、アメリカに渡った。
その姉に会いに行かせようと、私が奮発して、親孝行をしたという次第であった。
その姉は相当、出来が良かったそうだ。名を千代子さんと言った。子供の頃から、女ガキ大将のように、常にリーダーであった姉の下で、「私はいつも金魚のフンのように付いて回っていた」とお袋はよく言っていた。
成績は優秀で、学校でもトップだったそうだ。お袋は6人兄妹で、そのうち女性は3人。アメリカに渡った千代子姉さんの上にも、もう一人姉がいるのだが、この人も成績が良く、学校でトップだったそうだ。言ってみれば、お袋だけが成績が悪かったのだ。でも、お袋には特に悔しいとかいう思いはないようだ。姉たちを尊敬していた。末っ子の特権である。
父親、つまり私から見て、おじいさんに当たる人であるが、その人が出来の良い千代子さんをたいそう可愛がったそうな。私のおじいさんは、戦争が始まる前から名古屋にある三菱の航空機工場で働いていた。ジブリ、宮崎駿監督の「風立ちぬ」では、その工場が舞台となっていた。もちろん、私のおじいさんが堀越二郎のような航空機を設計する優秀な人であるはずがない。映画の中で言えば、後ろでエキストラのようにわさわさと工場で働く一工員である。私は「風立ちぬ」を、こんな感じでおじいさんは働いていたんだなぁと、観客の中では相当レアな見方で映画を鑑賞していたのだ。おじいさんは手先が器用で、新しいもの好きで、ラジオなんかは自分で直していたそうだ。
当時、女性は上の学校へは行かなったらしい。近所にいやらしいからだそうだ。女性が学校へ行くことに、近所の人の目が気になるというのは、今の時代にはその感覚を想像することすらできない。そのため、一番上の姉は、女学校でトップの成績を持っていたが、進学は“当然の如く”諦めたそうである。
ところが、千代子おばさんは進学を反対した自分の母親に、「私に花嫁道具は要らないから、大学へ行かせてくれ」と啖呵を切ったそうだ。
花嫁道具にかける費用を学費に回してくれということだろう。
その強気な言葉に、父親は“この子が男の子だったら、どんなに出世したことだろう”と娘であることを残念がったという。
千代子おばさんは、当時の師範学校、現在の愛知教育大学に進学する。
英語の先生となり、新聞社の仕事もしていたそうだ。その後、通訳となって、東京で仕事をするようになる。横田基地に勤めるようになって、日本人スタッフに英語を教えたり、アメリカ兵に日本語を教える仕事していたという。
一方、母は姉たちほどの学力が無かったので、当時としては“普通に”洋裁学校へ行った。
長い休みの日には東京の千代子姉さんのところへ行って、映画や百貨店、レストランなどに連れて行ってもらい、高価な服やカバンを買ってもらったそうだ。姉ちゃんと行った銀座の○○はどうたったとか、日本橋はどうだったとか、そんな昔話も聞かされたものだった。
千代子おばさんは羽振りが良かったそうだ。まだ1ドル360円時代である。アメリカ人の仕事をしていれば、そりゃ、収入もあったことだろう。1ドルは日本人の感覚で言えば、100円である。まだアメリカの経済力が圧倒的に強かった時代で、円はかなり安かったのである。アメリカ人が100円のつもりで出したチップが、日本では360円くらいの価値があったということだ。少し前なら、東南アジアに日本人が旅行した時、物価がこんなに安いのかと、ついつい買い物をし過ぎてしまったような光景がかつてのアメリカと日本の間にあったということである。だからドルで支払われたお給料も、日本人から見ればはるかに景気が良かったものだったのだ。日本企業や日本人の依頼による翻訳や手紙の代筆なんかもしていたという。その時代、いわゆるパンパンガ―ルというアメリカ兵相手の娼婦たちがいたのだが、英文が書けない彼女たちの代わって手紙を書く副業をしていて・・・これが結構な収入になったそうだ。千代子おばさんは通訳という、まだ当時は希少価値のあった仕事でバリバリ稼いでいたのである。花嫁道具など、自分で用意できたどころか、貯めたお金は後にアメリカで産んだ子供達の教育資金にもなったという。
そんなんだから、お袋が東京へ行く旅費もすべて千代子おばさんが軽く出してくれていたそうだ。
おばさんは、横田基地で知り合ったアメリカ軍人と結婚をする。
夫の愛称はボブという人であったが、軍人といっても気象学専門の学者軍人で、とても頭の良い人だったらしい。飛び級で大学に入り、24歳の時には、すでに大学で講師をしていたという。
千代子おばさんは故郷を離れ、アメリカに渡ることになる。まだ羽田空港が2階建てで、ずっと小さかった時代の風景が出発記念の写真に収められていた。
彼女がどんな人であったのか。
千代子おばさんの生年月日は、1930年2月25日である。
性格や基本的な運勢を診るので、いつものようにシングルチャートでホロスコープを作ってみる。
生まれた時間が分からないので、「ハウス無し」で作成する。
http://www.m-ac.com/pages/setting_j.php
すると、水星と火星が0度で、頭の回転が速い人だったことが分かる。気が強くて、討論も上手く、リーダーになりやすい人である。
土星と天王星が凶角90度で、個性が強すぎて、周囲から“変わり者”と見られていたことだろう。
最も注目すべきは、太陽、木星、海王星によるTスクエアだろう。私は“魔のTの字”とも呼んでいる。180度と90度凶角によって形成されるTの字で、言ってみれば、凶角の詰め合わせである。
しかも、構成している星が、木星(拡大という意味だが、凶角の場合、縮小となる)、海王星(感情)で、“疎遠星”である。感情が縮小し、別れなど、一人ぼっち感を味わいやすい人生となる。
Tスクエアを持っていると、人生が悲観的なものになる考える人がいる。
日本語にすると、「吉角」「凶角」と呼ばれるが、本来の英語はソフトアスペクト、ハードアスペクトと言う。“吉”、“凶”としてしまうと、良い、悪いの色が強く出てしまうが、本来は“弱い”“強い”という意味である。日本に入ってきた時に、「占いだから、吉、凶やな」と安易に訳されてしまった感がある。この言葉ではニュアンスが上手く伝わらないのだ。
ハードアスペクトが多い人は、運命的に打たれることも多いが、その分、貪欲さ、タフさ、強さを持っている。負けず嫌いだったりする。リスクを進んで取ろうとするし、刺激的な人生を求める傾向が強くなる。崖の上に宝箱があれば、その宝箱に向かって、よじ登っていく人たちだ。だから崖から落ちる人も多い。ただ、宝箱が平坦な地面にあっては、彼らはワクワクしない。崖と宝箱がセットでないと、心動かない。インディー・ジョーンズにような人たちなのだ。
私が鑑定しても、Tスクエアを持っている人の職業が経営者だったすることは多くあり、弁護士なんて人も数人いた。
Tスクエアは特に強いハードアスペクトである。カルロス・ゴーンさんはTスクエアを1つ持っていて、小室哲哉さんはTスクエアを2つ持っている。カルロス・ゴーンさんや小室哲哉さんくらいになると、崖から落ちているのか、宝箱を手に入れているのか、よく分からないが。
欲、意思の強さのレベルは高い。困難を招いたり、遭ったりすることが多いが、這い上がったり、切り開いたり力を持っている。この星並びを持つと、成功か失敗か、両極端になりやすいということだ。
千代子おばさんは典型的なTスクエアの人だった。
母は筆不精で、国際郵便のようなものは、おっかなくて厄介で全くしようとしないのであるが、一番上の品があって、頭の良いお姉さんが千代子おばさんとのやりとりを続けていた。
そこからアメリカでの暮らしぶりが伝わってきた。
1960年代後半から1970年代前半にかけては、日本人にとっては海外旅行なんていうのは手の届かぬものであった。そもそも日本人が自由に海外に行けるようになったのは、1964年の渡航自由化からである。その後1971年のニクソンショックをきっかけに、1ドル=360円が崩れて、ドルがどんどんと安くなっていくのであるが、それでも1970年代、まだ日本は今ほどお金持ちではなく、海外旅行など一生に一度できれば良い方だというのが、普通の人の感覚ではなかったろうか。
多くの日本人が、その一生に一度の海外旅行の機会と考えていたのが、新婚旅行であった。
新婚旅行の定番はかつてハワイであった。
私が子供の頃は、テレビ番組の「新婚さん いらっしゃい」の目玉賞品のハワイ旅行というのは、一生に一度しか行けない海外旅行へのキップというまばゆいばかりの輝きを放す賜り物だったのだ。
そういえば、昔のテレビ番組の豪華景品といえば、決まって海外旅行だったなぁ。
当時、日本人のアメリカ人の生活に対するイメージは、大きな冷蔵庫が家の中にはあって、大きな車(アメ車)があって、庭にはプールがあるといったものだったろう。
で、実際に千代子おばさんから送られてくる写真には、子供たちがプールで遊んでいる様子が写っている。大きなガレージをバックに庭でバーベキューなんかをしている。そこに、お茶目にも日本語で書かれた「やきとり」なんて暖簾があったり。トム&ジェリーに出てくるような大きなケーキで誕生日パーティーをする家族の風景がある。その子供たちのいでたちが、真っ赤なジャケットに皮靴だったりしたのだ。
その子供たちというのは、私のいとこたちに当たるわけであるが。
一方、妹である私のお袋の家庭、私の家はどうだったかというと、平屋で二間の家の家族5人が住んでいた。プールどころか庭すら無かった。近所の子供たちが数人集まって、道にビニールプールを広げて、ちゃぴちゃぴしていた。家で肉を焼くといったら、ホルモンを味噌漬け(名古屋だから赤味噌)にしたものをフライパンで焼いて、ちゃぶ台に持ってきて、それを家族が箸でつつき合うような・・・。うちの移動手段は自転車だった。
当時は、「巨人の星」や「あしたのジョー」なんかが放送されていた時代であったが、今思えば、周囲も似たり寄ったりなものだったろう。
アメリカからの写真を私ら子供は見せられたのであるが、文字通り“異国”の話であった。
で、“アメリカに親戚がいるんだよ”と友人たちに話しても、海外旅行すら手の届かない時代だから、誰も信じてくれはしなかった。
貧乏人の負け惜しみのようになってしまい、大ボラにしか聞こえなかったことだろう。
幼い頃、お袋の自転車の後ろに乗せられて、一緒に買い物によく行った。
お袋の背中を見ながら、がたがたと揺られたものだった。
アメリカのおばさんの話は、仰いで眺める、夕暮れ時の青空のようなものだった。
でも、本当にショックを受けていたのは、お袋ではなかったろうか、と思う。
意思の強さと聡明さを持てば、可能性の扉が輝きをもって開かれ、・・・育った環境が同じ姉妹なのにこんなに差が付いてしまう。姉がそうなのだから、親や環境のせいにはできない。
置いて行かれた感が半端じゃなかったことだろう。
で、お袋が教育熱心になったかというと、そうでもなかった。
私は、勉強しろと言われたことがおそらく一度も無かった。
小学2年生の頃、私は成績が悪く、三者面談の時、担任の先生が「この子には本を読ませた方が良い」と言った。
親父が大工をしていた我が家には、本らしい本なんて一冊も無かった。
お袋はさっそく学校の帰りに本屋さんに向かった。しかし、お袋は何を読ませたらよいのか、さっぱり分からない。
私に「好きな本を選んでええぞ」と言う。
事情が分からないから、私は素直に欲しい本を手に取り、お袋は何も言わずにその本を買ってくれた。
マンガの「がきデカ」であった。がきデカというのは、子供が好きな下ネタを連発して人気を博していた、当時最も下品なマンガの1つだった。
その本を持ち帰って、一番喜んだのは兄だった。私より先に読み終えてしまったことを今でも覚えている。
そんなお袋だったから、教育や学問が人生に大きな影響を与えることを身に染みて分かっていても、“勉強しろ”とはよう言わなかったのだろう。
国際電話というものはある。お袋の兄妹はだれも001から始まり、国番号を入れるような複雑な国際電話を怖がって、掛けようとする人がいなかった。当時の高価な電話代の問題もあったろう。
私もだんだん大人になっていき、自分のことで忙しくなっていくと、会ったことも話したこともないアメリカのおばさんのことは、遠い話のままになっていく。
日本も予想以上に豊かになっていく。
バブルの時代には、私は大学生であったが、学生でも海外旅行なんて行けるようになっていく。合コンでは、海外旅行の話を空白となった時のネタカードとして持っているヤツもいた。もうハワイは猫も杓子も行く時代になっていた。
で、ある時、親戚の人が千代子おばさんのところに電話をしようとした時、つながらなかった。この電話番号は使われていないという英語のテープが流れてきたという。それ以降、連絡が取れなくなっていく。
2001年9月11日。ニューヨークで同時多発テロが起こる。いわゆる911テロである。
私はその時、番組の取材でアメリカ・サンフランシスコにいた。その話をすると、よく、911テロを取材していたのですか?と訊かれることがあるが、あくまで偶然である。私はその頃、NHKのテレビ番組を作るディレクターをしていたのだが、番組の内容はITとネットの話だった。カリフォルニア州では、役所でのサービスをネット上で行っていたのだが、その構築を民間企業が請け負っていたのだ。州には一切費用が掛からない。その代わり、市民が利用する際に払う5ドルの手数料をその民間企業が受け取れる形になっていた。カリフォルニア州は広いので、役所の出張所のようなところに出向くにも、結構な距離がある。だから5ドルを払ってでも、ネットで許可申請などの処理をした方が助かる。役所も市民もウィンウィンという内容であった。
で、そんな仕事でサンフランシスコにいた私が、911テロに出遭うとどうなったかというと、次の取材地にも、日本に帰ることもできず、2週間も足止めを食らうことになった。私の仕事上でできることと言えば、ホテルから歩いてすぐのところにJTBの窓口があったので、飛行機の席が取れないことを確認して、部長に「飛行機が飛ばず、予定が組めません。すみません。」とメールをのほほんと打つことくらいであった。
で、長すぎる異国での空白の時間があった。テロの緊迫感も次第に収まっていき、・・・私はサンフランシスコを堪能したのだ。同じく足止めになったスタッフのコーディネーターも一緒に歩き回った。普段なら予約しなければ入れないような観光スポットでも、キャンセルだらけなので、すいすいと入れた。中華街なんて何度行ったことか。ケーブルカーのケーブルが地面の下でぐるぐる回っているのをただ眺めていることもあった。
時間はたっぷりとあったので、・・・コーディネーターに千代子おばさんのことを話した。すると、コーディネーターの男性は、お安い御用とばかりにホテルの電話を掛け始めた。日本で言うところの104のような電話番号案内のサービスだったのだろう。
千代子おばさんの電話番号を探し当てた。コーディネーターはそのまま長距離電話で千代子おばさんに電話をしてくれたのだ。
私はその時、生まれて初めて千代子おばさんと話をすることとなった。おばさんの方も妹の息子から、しかもアメリカ国内から電話してくるとは思っていなかったようで、相当に驚いていた。
おばさんは英語交じりの片言の日本語になっていた。
「私、久しぶりの日本語だから、おかしいでしょ。」
時々、言葉が思い出せないと、“日本語でなんて言うのか忘れちゃったけど”と言いながら、英単語に置き換えて話していた。
なぜ、日本からの電話がつながらなかったかというと、フロリダで暮らしている間に電話のシステムなどが変わり、7回も電話番号が変わったそうなのだ。
それ以来、日本語の話せない従弟たちとメールをやりとりするようになり、お袋は国際電話をするようになっていった。私はおばさんには今の名古屋の風景写真を送ってあげたりした。
そうこうしているうちに、お袋は心臓を患い、人工弁を入れることになった。その後、年々、薬の量が異様に増えていくことになるのだが。
一方、千代子おばさんも心臓にペースメーカーを入れていた。どうも心臓の悪くなりやすい家系のようだ。
お袋もおばさんも70代になっていた。
私は、歩けるうち、話せるうちに会わせておかないと、実際に顔を合わせることは難しくなるだろうと思っていた。
だから、奮発してお袋を連れて行ったのだった。
フロリダに、メルボルン空港という小さな国際空港がある。アトランタ経由で行った。何時間掛かったか覚えてもいない。とにかく遠かった。
現地の空港に着いたときには夜だった。千代子おばさんの運転で、従妹とともに迎えに来てくれていた。私たち以外、ほとんど人の気配のない地方の小さな空港でお袋は姉と再会したのであった。
一緒に空港の建物を出ると、潮の香り混じる温かい南国の風に、身体が包まれた。道も広々としていて、ヤシの木がいっぱい茂っている。これがフロリダかぁ。
千代子おばさんの元夫のボブと会う。元というのは、ずっと前に離婚をしていたそうだ。話によれば、おばさんは強過ぎたのだそうだ。ヒステリックになることがよくあったという。
離婚しているとは言え、毎日家に来ているし、毎晩夕食は一緒にしている。ボブの日課は、カトリーナハリケーンで壊れた家を数年かけて、リフォームすることであった。私が行った時期もタイル張りをしていた。アメリカ人の結婚観が理解できなかったので、なぜ離婚したままなのかという野暮な質問はしなかった。
ボブおじさんは背の低いアメリカ人であった。
昔聞いた話である。ボブおじさんが、名古屋の両親に挨拶をしに来たと言う。両親とは私のおじいさんとおばあさんに当たる人たちだ。2人は、相当緊張した。戦争を体験した世代の人たちにとって、アメリカ軍人が家にやってくるというのは、1つの恐怖であったことだろう。
お袋の実家は、古い家の立ち並ぶところにあった。黒く、長屋のような形になっていた。窓には木の格子が付いていた。私の子供の時にもまだ土間などが残っており、台所は草履をはいて支度していたような覚えがある。玄関をくぐるとじめっと土の匂いがしたのだ。まぁ、当時はそんな家もまだ多かったろう。
そこへボブが千代子おばさんとともにやってきたということだ。
おじいさんもおばあさんも揃って目を丸くした。
ボブおじさんは身長が160cmほどしかないのだ。寝巻きの着物の心配をして、大き目のものをおばあさんは用意したが、裾が余っていたという。布団の心配も無用であった。後姿は日本人と見間違えるほど小柄だったそうだ。それで、おじいさん、おばあさんはボブおじさんに親近感を覚えたという。
私の身長は180cm。
だから、ボブおじさんは私を最初に会った時、第一声は「日本人なのに、なんでそんなに大きいんだ?」という言葉だった。
でも、アメリカ人らしく、ガタイの大きなピックアップトラックに乗っていた。後ろの荷台にはリフォームするための道具や材料などの他、趣味のものがいろいろ載せてあった。燃費が悪くなるから、降ろした方がいいのではないか、と尋ねたが、彼は無言であった。従妹に寄れば、その話は全く聞く耳を持たないそうだ。
ボブおじさんは、アメリカ軍人なのであるが、学者タイプの軍人で、なぜフロリダにいるかというと、NASAで働いていたからであった。
私は星占い師である。星占いも好きであるが、子供の頃は、そりゃ、ロケットとか、スペースシャトルとか大好きでしたよ。子供の頃、私がねだって買ってもらった唯一の図鑑が「宇宙の飛行の図解」というもので、その図鑑を見ては、ソ連やアメリカのロケットの名前と飛んだ年月日なんて全て暗記していた。宇宙船の絵も自由勉強のノートによく描いていた。
だから、NASAで気象官なのか、何のスペシャリストか知らないが、もう十分に憧れの人となってしまうのであった。ちなみにボブおじさんは、General(大佐)だったそうだから、それなりに位の高い人だったのだろう。
私はフロリダにいる間、従妹とその彼氏にディズニーランドに連れて行ってもらった。私は東京ディズニーランドに行ったことが無かったので、それが初めての“ディズニーランド”だった。
それなりに楽しかった。けど、やはりボブおじさんに連れて行ったもらったケネディ宇宙センターの見学コースの方がはるかに私にとっては刺激的だった。
青空に突き立つように並ぶロケット群に目を見張った。どんな質問でも、ボブおじさんは答えてくれた。こんなスペシャルなガイドが付いているのだから、贅沢なものである。
3D シアターがあって、アポロ11号の月面着陸のプログラムが放映されていた。私は英語の説明と時差ボケなどで、うとうとしてしまっていたが、目を覚ますと、隣に座っていたボブおじさんは泣いていた。
私がそんな風に従妹やおじさんと出歩いている間、お袋は千代子おばさんと一緒にいた。
ココアビーチを歩いたそうだ。ココアビーチというのは、サーフィンで有名な海岸だ。大西洋に面していて、外海からの高さ数メートルの大きな波が打ち寄せている。全米から若者たちがサーフィンを楽しむために集まるのだそうだ。A1Aという映画の題名にもなった有名な幹線道路が通っている。海岸線に沿った真っ直ぐな道だ。その道にきれいに等間隔にヤシの木が育っている。日差しが強い。サングラスに派手なシャツを着た人たちがビールを飲みながらビーチバレーを楽しんでいたりする、賑やかな若者の海である。
70代の姉妹は、そんな砂浜の手前に座り、海を眺めてこれまでどんなんだったのかを語っていたのだ。
2人には、荒い波の音さえ、遠くに聞こえた。
千代子おばさんは、日本を離れて、離婚もし、女手一つで子供を4人育てた。息子2人は医者になった。おばさんは子供の頃、医者になりたかったのだそうだ。その夢を2人が継がせたのだろうか。子供たちに日本語を教えなかったのは、差別を怖れたからだそうだ。“ピンク”という日本人蔑視の言葉が、おばさんが渡米した頃にあったという。ストレスが溜まって、夫に当たり、それで離婚となり、・・・金銭的にも苦しくなっても、周囲には相談する友人も親族も無かった。日本語を忘れてしまい、話せなくなっていた時期もあったそうだ。
おばさんの家にはバナナが成っていた。熟しているのを探してはもぎってくれた。
プールにはひびが入っている。そのひびにトカゲが隠れていた。いつまで使っていたか忘れたそうだ。家は水路に面していて、小さな船着き場がある。しかしもう何十年も舟を所有していない。
千代子おばさんが、昼食にピザ屋さんに連れて行ってくれた。5ドルで食べ放題というお店だった。
従姉妹たちは、あのお店は生地が冷凍で美味しくないから、私たち親子を連れて行ってはダメと言っていたそうなのだが・・・。
「娘たちはいろいろ言うのだけれど、私にはこのピザが美味しくないというのが分からないんだよ。・・・日本人だからかねぇ。」
整形し、二重のぱっちりした目を持った千代子おばさん。肌は陽に焼けている。
セルフサービスのお店で、サラダも食べ放題だった。少し古いが、窓が大きく、広々としたお店だった。時間が中途半端だったのか、私たち3人以外にお客はいなかった。それでも、私たちはたんまりとピザを楽しく味わった。私も母も、そのピザが美味しくないが分からないままだった。それでいいと思った。
海は近いのに、なぜだが乾いた風が吹いていた。日差しの強い青空まで、カラリとしていた。
そんなフロリダに2週間ほど居た。
亡くなった母のポーチにあった数枚の写真は、フロリダに行った時のものである。
別れの前の夜には、パーティーを開いてくれた。従姉の手作りの厚さが20cmあるラザニアを食べきれずに残していた。
写真に写っているお袋の顔は、ぽーっとしている。
実は最後まで、時差ボケが取れなかったのだ。
それでも、お袋は事あるごとに、フロリダにいったことを年寄り仲間や、ヘルパーさんに話していたそうだ。
「姉ちゃんがアメリカにいるでよ、それで泊めてもらってきたんだわ。」
その次の相手の質問は、“えっ、なんで、姉さんがアメリカに居るの?”となる。
そして、「私の姉ちゃんはなぁ、・・・花嫁道具は要らんと母親に言ったんだわぁ・・・」とお袋のお得意の講談が始まったそうだ。
フロリダの旅行は、お袋がいつまでも手の届かなかった千代子おばさんに、少しは触れられた瞬間だったのかもしれない。
千代子おばさんは数年前に一度調子が悪くなり、危篤状態になった。ボブおじさんから、弔辞を葬式の時に読むから、どんな学校をいつ卒業したかなどを教えてくれという知らせが来た。
私はそれに応えて、メールでお袋から聞いたことを伝えたが、・・・医者の息子が良い病院を紹介したのか、元からタフな生命力なのか、おばさんは奇跡的に回復した。
結局、ボブおじさんの方が先に亡くなってしまった。
そして、お袋が亡くなった。
千代子おばさんは昨年の夏に逝ってしまったそうだ。
鑑定していると、ホロスコープにTスクエアがあって不安だという人がいる。本人だったり、子供だったり。
“凶角”だらけで、幸せになれないのではないかと。
そういう人には“凶”ではなく、“ハード”だと伝えている。
確かに波乱の多い人生である事例はよく聞く。
しかし、“凡人”が憧れるような活躍する人たちもいる。社長だったり、弁護士だったり。
強いのだ。タフなのだ。ハートがハードなのだ。
80代になった婆さん2人は、コーヒーでも飲みながら、ああでもない、こうでもないと年寄らしく同じ話を飽きずに繰り返しているのだろう。
ココアビーチの砂浜でたっぷりと話したろうに・・・。
ただ、今は、青空の下ではなく、青空の上だ。